本日、7月23日 NHK おはよう関西 午前7:45~午前8:00(15分)朝の連続テレビ小説の前のニュースで、
「シベリヤ抑留」のことがとりあげられていました。


「シベリヤ抑留」の資料が、ユネスコの世界記憶遺産登録候補となりました。

来年は戦後70年、引き揚げ70年の節目の年になります。
荒木正則さんは、この7月7日に90才、卒寿をおむかえになられました。おめでとうございます

8月2日、川西市、川西能勢口駅すぐのアステホールにて
「シベリヤ抑留」の体験者90才の荒木正則さんの講演会を開催
いたします。同時に、拉致・特定失踪者、川西市に当時在住しておられ
川西明峰高校出身の秋田美輪さんについての啓発、
そして拉致問題の政府啓発アニメ、横田めぐみさんのDVD「めぐみ」
の上映をいたします。

どうぞ、ふるってご参加ください。



【兵庫県川西市】 いのち・真の平和・拉致問題を考える集い ~三年間のソ連シベリヤ強制抑留体験を持つ旧日本陸軍将兵、荒木正則先生90才のお話を聞く会~ (8/2)

日時  平成26年8月2日(土) 18時30分~21時00分
場所  アステ川西 6階 アステホール http://www.astekawanishi.com/
(阪急宝塚線 川西能勢口駅 徒歩1分 / JR福知山線・東西線 川西池田駅 徒歩3分)

内容 《第一部》拉致問題啓発アニメ「めぐみ」上映
   《第二部》講師:荒木正則先生(旧日本陸軍将兵 / 三年間のソ連シベリヤ強制抑留体験 / 90才)※ ビデオと講演
   《第三部》特定失踪者・秋田美輪さん(川西市に当時居住、川西明峰高校出身)について

参加費 1,000円(小中高生・大学生 無料)
主催  秋田美輪さんを救う川西市民の会

お問合せ TEL 090-3656-3350  FAX 072-776-8821 MAIL joan_of_arc@jttk.zaq.ne.jp
     ※ 当日参加可(ただし先着200名)



下記は、荒木正則さんについての産経新聞の4年前の記事です


第3部 極限のシベリア(1)抑留
「生け贄、奴隷、民族の悲劇」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110118/trd11011820550094-n1.htm
2010.11.16 21:54

日本から約2千キロ離れたロシア・ハバロフスク州のエボロン。広大なユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道の支線、バム鉄道沿いにあるロシア東部の小村だ。
今年8月、荒木正則(86)=大阪府河内長野市=は、政府遺骨収集団の一員としてこの地を踏みしめた。

 終戦後の約3年間、シベリアに抑留された荒木は、平成15年からほぼ毎年、遺骨収集に参加してきた。高齢のため、本当は昨年限りでやめようと思っていたが「今年はエボロンと聞いて、何が何でも行きたかった」。この辺りは、まさに荒木が過酷な強制労働に従事した場所だった。

 総勢約20人のメンバーとともに、雑木林で土を掘り進める。遺骨の一部が見え、「よし、おれが入る」と声を上げた。小型のくま手で穴の土をかき分け、一つずつ遺骨を取り出す。

 中には、タイヤのチューブのようなひもが絡んだ足の骨もあった。積み置かれた遺体の手足が、冬に凍ってバラバラにならないように結ばれたのだという。

 時折、近くを走る列車の音が響く。バム鉄道は、かつて荒木ら日本人の手で線路が敷設された。
「いちずに国を守るんだという気持ちだった」。すでに戦況が悪化していた昭和19年10月、陸軍の荒木は満州(中国東北部)に渡り、ソ連国境近くの警備にあたった。物不足のため軍刀の鞘(さや)は竹製で、水筒代わりに竹筒を携えていた。

 20年8月9日、ソ連が参戦。地雷を抱えて戦車に体当たりした仲間も少なくなく、自身も生死は紙一重だった。その後、シベリアへ連行。鉄道建設の路盤工事に投入された。

 草をむしり、山を爆破して土砂を盛る。森林を切り開きながら、ひたすら北へ北へと進んだ。粗末な建物で暮らし、わずかな食事と極寒の中で、銃を持つソ連兵に追い立てられる。渇きを潤す1杯の水も手に入らず、代わりに雪をとりに行った仲間は銃殺された。荒木自身も、たびたび死の淵(ふち)をさまよった。

 「動物的な生活の中で、人間性をなくさないと生きていけなかった。自分はまだ若かったが、家族のいた人たちは体力的なしんどさに加え、精神的にいろいろと考えて眠れんかったろう」。耐え難い日々の中で、夜に見上げた無数の星の輝きが今も忘れられない。「何も考えられない毎日だったけど、あのときは帰りたいと心底思ったよ」

終戦から65年。今回訪れた埋葬地は、湿地帯にあった。老骨にむち打ち、宿舎から毎日片道30分の道を、ひざまで水につかりながら徒歩で往復した。宿舎に帰るとベッドに倒れ込み、翌朝にはぬれたままの靴で再び埋葬地へ向かった。

 作業はロシア側から提供された埋葬図をもとに進められたが、埋葬場所の特定は困難を極め、今夏の活動では、予定(199人分)に遠く及ばない37人分の遺骨しか収容できなかった。

 「抑留者は、戦後ソ連が主張した北海道割譲に代わる生(い)け贄(にえ)であり、奴隷のように扱われた民族の悲劇だ」。荒木は今も、悔しさと怒りを抑えきれない。

 仲間は苦しみ抜いて死んでいった。政府は平成3年からシベリアでの遺骨収集を始め、21年度までに154回派遣されたが、いまだ約3万5千人分の遺骨が残されたままだ。決して積極的とはみえない姿勢に対し、「仲間が浮かばれない」と歯がゆさを感じる。

 現地で営まれた追悼式。荒木は仲間に呼びかけた。「さあ帰ろう、祖国日本へ。歩けないのか、ならば肩につかまれ。背負い、抱いて帰る」(敬称略)



 56万1千人が連行され、5万3千人が亡くなったと推定されるシベリア抑留。いまだ残されたままの課題を、元抑留者らの証言などを通じて考える。




7月23日 NHK放送
シリーズ「未来に伝える戦争」(2)~生きて語る 抑留の記憶

先月、京都府舞鶴市のシベリア抑留や引き揚げに関する資料が、ユネスコの世界記憶遺産登録に向けた国内の候補に決まりました。しかし資料を残した人の多くが他界。当時を語ることができる人は、ほとんどいません。資料を所蔵する舞鶴引揚記念館でも、抑留と引き揚げの経験を持つ語り部は、現在たった一人。家族にも話せず、悪夢にうなされてきた60年の日々をこえ、意を決して語り部を始めた男性だけです。「戦争を知らない世代」に対してもどかしさを感じながら、残された時間の中で伝えたいメッセージとは。また地元の若者たちはそこから何を受け取るのでしょうか。抑留・引き揚げの歴史が刻まれた町で、薄れゆく記憶を受け継ごうとする人々の姿を追います。






「シベリア抑留」資料、世界記憶遺産国内候補に 「岸壁の母」の手紙、「白樺日誌」…後世へ

2014.7.9 09:30

 ■記念館来館者も増加、

 終戦後、ソ連(当時)によって約60万人が抑留され、約1割が死亡した「シベリア抑留」。抑留者や家族の手紙、絵など570点が6月、ユネスコ世界記憶遺産の国内候補に決まった。登録の可否は来年夏頃決まるが、資料を所蔵する「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)では来館者が早速増加。未曽有の非人道的行為への関心が改めて高まっている。(喜多由浩)

                   ◇

 「幽囚の身こそ悲しき遺言もあらずて異郷に逝(い)く人多し」

 氷点下40度、50度にもなる酷寒での重労働、飢餓、病気…。シラカバの皮に空き缶のペンで刻まれた「白樺(しらかば)日誌」には苛酷な環境で辛酸をなめた抑留者による約200の短歌や俳句が残されている。紙や筆記用具もなく、煤(すす)をインク代わりにして、思いの丈を書き残したという。

 「岸壁の母」のモデルとされ、舞鶴港で戻らぬ息子を待ち続けた端野(はしの)いせさんの手紙や、抑留者が日本の家族に送った「俘虜(ふりょ)用郵便葉書(はがき)」も対象となった。

 自由を奪われ、先が見えない抑留生活。一日も早い家族との再会を願いながら書いた手紙も、「重労働」「飢餓」「寒さ」という“三重苦”に触れると、たちまちソ連側の検閲によって止められたという。

舞鶴港には昭和20(1945)年から33年まで、約66万人が引き揚げ、その約7割がシベリア抑留からの帰還者だった。

 市内在住の安田重晴さん(93)は、終戦直後に満州(現中国東北部)でソ連軍に武装解除され、夏服のまま、貨車に詰め込まれ、シベリア鉄道で国境近くの収容所に送られた。

 「ソ連兵は『トウキョウダモイ(帰還)』とウソをいって、日本兵をシベリアへ連行した。酷寒のなかで伐採や土木作業など、苛酷な強制労働をさせるのに食事はわずかな黒パンと薄いお粥(かゆ)だけ。多くの戦友は最初の冬を越せずに、栄養失調と病気でバタバタと死んでいった」

 安田さんは約2年半、各地の収容所を転々とさせられ、23年5月、やっとナホトカから引き揚げ船に乗る。「船が舞鶴港に近づいたとき、鮮やかな新緑が目に入ったんです。それを見て『ああ、美しい祖国日本に帰ってきたんだ』って実感しましたね」

 「舞鶴引揚記念館」は、こうした悲惨な史実を後世に伝えるために、抑留経験者や市民らの支援、協力によって63年に開館。手紙、日誌類や写真、絵のほか、当時の衣類や生活用品、収容所内を再現した模型などを展示している。

関係者の高齢化や戦争の風化などで来館者はピーク時の半数以下に落ち込んでいたが、国内候補に決まってからは昨年比で約30%増加、若い世代や修学旅行での来館も増えた。

 山下美晴(みはる)館長は「(世界遺産登録が決定する)来年は戦後70年、引き揚げ70年の節目の年。日本だけでなく、ヨーロッパなども関係する世界史的に重要な史実であり、ぜひ世界遺産への登録を実現してほしい」と話している。