~川西の歴史のひとこま発見~
昨日、ポスティングの途中で、川西市の元三ツ矢サイダー、
平野サイダー、平野温泉の跡地の近くを歩きました。
平野の湯は、江戸時代には、平野地区にわき出た温泉は、江戸時代、有馬湯、一庫湯とともに、摂津三湯の一つに数えられていました。塩川の流れに沿って、100mに渡り20を超える温泉宿が建ち並び、妙見山への参拝者や湯治客でにぎわったようです。
国道173号の西側には、薬師庵(あん)跡を示す標石が建っています。平野3丁目に変わるまで、湯ノ町という字名も残っていました。
温泉は、江戸時代末期の大火災の後に衰退しましたが、明治17年には、鉱泉を利用した、日本で最初の清涼飲料水の製造工場が誕生しました。「平野水」の発売です。
40年には、炭酸飲料水にシロップを加えた「三ツ矢サイダー」の製造を開始。最盛期の工場では五百人が働き、東洋一の規模を誇っていました。「三ツ矢」のマークの入った建物が当時をしのばせています。
薬師庵、小さなお寺がありました。 お百度石や温泉跡地の石碑がありました。
三ツ矢サイダー、能勢電鉄、さくら銀行の
開祖である長谷川喜兵衛氏のご末裔が、そのお寺を以前、お守りされておられ、川西の歴史について教えていただきました。
多田神社とも多太神社とも所縁のあるお話です。
私の住んでいる家は
多田神社(多田院)を建立した源満仲が、丘陵地に田畑を開墾したことに由来する新田にあります。
同地区の北部、小高い丘の上に新田城があったと伝えられています。多田院を本拠に清和源氏の基礎を固め、小独立国家を形成した満仲の館だったという説と、戦国時代にこの地を本拠としていた塩川氏の山城とする説があります。塩川氏は山下城を居城としていたため、新田城は出城だったと考えられています。
身近なところに遠いご先祖である源満仲、頼光ゆかりの歴史的
遺産があることに感動し、また新田城あとに住んでいるご縁とに
感動しました。
お寺には平安時代や鎌倉時代の仏像があります。


歴女になった気分の中曽千鶴子、こうした昔の史跡が大好きですから
本当に幸せでお話を聞いてワクワクドキドキ
しました。
柳と蛙でおなじみの花札でおなじみの小野道風のお墓、発見★

そのそばには、小野道風(894年~966年)の墓がありました。
(花札でなじみの深い道風は、藤原佐理、藤原行成と並ぶ「三跡」のひとりで和様の書の創始者)
昔の人はいい事をいいますね。私も努力したいです。
この柳と蛙の花札の絵の主人公が川西のしかも家から歩いてすぐの
ところにあるなんて、
ずっと川西市に住んでいましたが、はじめて知りました。
今日歴史を教えて下さった方に感謝いたします
1000年いやもっともっと以上続く、日本の侍、大和魂、武士道は
実は、源氏のふるさと、川西市からはじまりました。
天皇家ともつながりが深く、豪族の古墳などもあります。
この古き伝統、歴史を川西の子供たちに伝えていきたいですね
昨日、ポスティングの途中で、川西市の元三ツ矢サイダー、
平野サイダー、平野温泉の跡地の近くを歩きました。
平野の湯は、江戸時代には、平野地区にわき出た温泉は、江戸時代、有馬湯、一庫湯とともに、摂津三湯の一つに数えられていました。塩川の流れに沿って、100mに渡り20を超える温泉宿が建ち並び、妙見山への参拝者や湯治客でにぎわったようです。
国道173号の西側には、薬師庵(あん)跡を示す標石が建っています。平野3丁目に変わるまで、湯ノ町という字名も残っていました。
温泉は、江戸時代末期の大火災の後に衰退しましたが、明治17年には、鉱泉を利用した、日本で最初の清涼飲料水の製造工場が誕生しました。「平野水」の発売です。
40年には、炭酸飲料水にシロップを加えた「三ツ矢サイダー」の製造を開始。最盛期の工場では五百人が働き、東洋一の規模を誇っていました。「三ツ矢」のマークの入った建物が当時をしのばせています。
薬師庵、小さなお寺がありました。 お百度石や温泉跡地の石碑がありました。
三ツ矢サイダー、能勢電鉄、さくら銀行の
開祖である長谷川喜兵衛氏のご末裔が、そのお寺を以前、お守りされておられ、川西の歴史について教えていただきました。
多田神社とも多太神社とも所縁のあるお話です。
私の住んでいる家は
多田神社(多田院)を建立した源満仲が、丘陵地に田畑を開墾したことに由来する新田にあります。
同地区の北部、小高い丘の上に新田城があったと伝えられています。多田院を本拠に清和源氏の基礎を固め、小独立国家を形成した満仲の館だったという説と、戦国時代にこの地を本拠としていた塩川氏の山城とする説があります。塩川氏は山下城を居城としていたため、新田城は出城だったと考えられています。
新田城は、今NHKの軍師 官兵衛の中で描かれている
荒木村重が織田信長に謀反をおこしたために伊丹の有岡城が攻められ
その時に荒木村重が反抗するための備え城としたという説があり
そのために有岡城の戦いのときに焼き討ちされました。
身近なところに遠いご先祖である源満仲、頼光ゆかりの歴史的
遺産があることに感動し、また新田城あとに住んでいるご縁とに
感動しました。
お寺には平安時代や鎌倉時代の仏像があります。


歴女になった気分の中曽千鶴子、こうした昔の史跡が大好きですから
本当に幸せでお話を聞いてワクワクドキドキ

柳と蛙でおなじみの花札でおなじみの小野道風のお墓、発見★

そのそばには、小野道風(894年~966年)の墓がありました。
(花札でなじみの深い道風は、藤原佐理、藤原行成と並ぶ「三跡」のひとりで和様の書の創始者)
道風は、自分の才能のなさに自己嫌悪に陥り、書道をやめようかと真剣に悩んでいる程のスランプに陥っていた時のこと、ある雨の日散歩に出かけていて、柳に蛙が飛びつこうと、何度も挑戦している姿を見て「蛙はバカだ。いくら飛んでも柳に飛びつけるわけないのに」とバカにしていた時、偶然にも強い風が吹き、柳がしなり、見事に飛び移れた。これを見た道風は「バカは自分だ。蛙は一生懸命努力をして偶然を自分のものとしたのに、自分はそれほどの努力をしていない」と目が覚めるような思いをして、血を滲むほどの努力をするきっかけになったという
昔の人はいい事をいいますね。私も努力したいです。
この柳と蛙の花札の絵の主人公が川西のしかも家から歩いてすぐの
ところにあるなんて、
ずっと川西市に住んでいましたが、はじめて知りました。
今日歴史を教えて下さった方に感謝いたします
1000年いやもっともっと以上続く、日本の侍、大和魂、武士道は
実は、源氏のふるさと、川西市からはじまりました。
天皇家ともつながりが深く、豪族の古墳などもあります。
この古き伝統、歴史を川西の子供たちに伝えていきたいですね