毎回のメディテーションクラスでの話の内容をブログにするという、自分で自分に課したこのタスク。
段々と、試験勉強に臨む学生のようになってきつつあり、この1週間の間に2冊の本を完読し、過去に読んだ他3冊の本を参照し、
読んだからと言ってそれがネタに使えるわけでもなく、結局今日は以下3冊の本の中から要所をピックアップしてお話ししました。
つまり、どの本も同じようなことを言っている=真理は同じ ということです。
1.ぜんぶ、すてれば 中野善壽 著
2.[禅的]持たない生き方 金嶽衆信 著
3.心の中がグチャグチャで捨てられないあなたへ ブルックス・パーマー 著
断捨離と言っても、タイトルにあるように、単なる物の断捨離から一歩深く入った、心と人生との関連をお話ししました。
私は免許はあるけど、「ずば抜けた方向音痴」のため車を運転することはすっかりあきらめました。
なので、車の運転が得意な方に、買ったもののデリバリーをお願いしています=常になんでも通販で買っています。
ちなみにAMAZON派です。(なので後ろにあるmy PickもAmazonになっています)
そのため、物を買いすぎる傾向にあります。
サイトを見ると、これも必要かも、とか、いいかも、と思ったものをつい「ポチッ」としてしまうんですね・・・。
届くまでのウキウキ感、届いてから開封するまでの何とも言えない感覚に、正直中毒になっているんです。
いえ、「いた」んです。
開封してしまうとそれまでで、そのあとは包みを処理しなくてはいけない煩わしさや、届いたものを見たという満足感でもうその商品への興味は半分以上無くなり、使ってもそのうちどこか奥にしまいこむ、ということの繰り返し。
またそのウキウキ感が欲しくて別のものを注文する、という悪循環に陥っていました。
物自体は、使わないもの=不要なもの、不適なもの、不快なもの、つまり「ガラクタ」になっていく一方で、買ったことさえ忘れているものも多々積もっていました。
つまり、心が何だか満たない感じを、物を買うことで埋めようとしていたわけです。
自分が抑圧している心の中の想いから注意を反らすための行動であったのです。
物をたくさん持つとか、買うという物質的な「ガラクタ」は、内面の心の「ガラクタ」が作りだしているものだったんです。(上記3の内容を一部引用)
その時にはそんなことも気が付かなかったですけど・・・。
でも、物を持ったからと言って、心は安定しなかったわけです。
だからこそ何年もの間、買ってはしまいこみ、買ってはしまいこみ・・・を繰り返していました。
家を買ったり建てたりすることさえ安定は生まないと、上記1の本の中では言われています。
”災害が迫る中、「家が心配で残りたい」為に、命を捨てることになることもある”と。
いつでも移れる、どこでもすぐに新しい生活を始められる、という人生の選択肢を広げる心の軽やかさを持つという選択肢もあるよと言っております。
確かにそうなんですよね。
住んでいる間はいいかもしれませんが、いざ住む人がいなくなったり、古くなったりしたときに、この家=大きなガラクタ は一体誰がどうするの?誰のお金で?? と、両親が他界した時に既に困った経験をしています。
しかし、去年の暮れあたりから、人生が年単位の大きなスパンで変化していくことになりそうだな、という直感(なのか、ただの思いこみなのか?ちょっぴりそういうかなり微細な感覚を感じ取る能力はあるみたいです、私)で、そのためには、物の断捨離をする必要があるなと思い、まずは、しまいこんでいた、いつ買ったのかも分からないようなものから処分を始めました。
すると、人間関係に対する想いや感覚、実際の関係も少しずつ変化を遂げてきているので面白いものです。
全く根拠のない感覚でしかないのですが・・・
カルマによって縛られていた、呪文にかかっていた心と人生が、解放されてきている
ような感じです。
”ガラクタは物だけではありません。時には人間もガラクタになります。
それまで偽りの人生を送ってきていても、ガラクタを処分することで自分本来の人生を生きてゆくことができることもあります。
これには大きな勇気と決意が必要ですが、自分がガラクタの中で暮らしていたという単純明瞭な気づきからすべては始まります。
かつてその人はあなたの人生にとって重要な存在でしたが、それはもう過去のことです。その人と縁を切ることによって、自分が自由になるだけではなく、相手も自由になることが出来るのです。罪悪感を抱く必要はありません(3より引用)”
”出会いがあれば、別れもある。特に男女においては、いちど夫婦になり、仲睦ましい時を経て、離れる選択をするのは決して珍しいことではありません。僕の夫婦観は「高め合える関係でなくなったら、離れた方がお互いの為」。その方が長い人生をより豊かに、有意義に生きられると思うのです(1より引用)”
上記2つはいずれも夫婦間のことについて述べられていますが、職場の人間関係でも、近所の迷惑な人でも同じなんじゃないかと思います。
が、私はこの中野さんの「高め合える関係」という言葉にぐっときました。
これ、すごく必要だと思います。
自分を高めてくれる人、は割といます。
が、高め”あえる”ということは、常に自分も上を目指して努力し続けることが必要になるってことで、それによって、相手もまた高まってことなのですよ。お互いに努力を続けられる、でも疲れた時には癒しあえる、かつ、その間に競争や嫉妬が生まれるわけではなく、良い関係のまま高め合えるということは、そこにユーモアや笑いもあるってことで、そんな人いるの?とも思いたくなるけれど、そこもまた「努力」ですよね。その努力が当たり前にできる相手(つまり相手も同じ価値観を持っているってこと)、に、巡り合えたら最高ですね!
そんなの理想でしかないよって思います?
いえ、私は思いません。が、かなり人間的に洗練されたカップルにはなると思います。
そのためには、そういう人を見つける前に、”あなた自身”が洗練された人になら無いとダメなんですけどね・・・。
同じレベルでないとうまくいかないのは当然ですから。
相手にだけ洗練を求めても、あなたが洗練されていなければ、ダメになります。
先ほど、「カルマによって縛られていた、呪文にかかっていた心と人生が、解放されてきているような感じ」と書きましたが、長く続いたこの期間は、むしろ無くてはなら無い期間であったと思います。この期間は自分を洗練するための期間だったわけなので、ここも大事な人生で、この期間を通らなかったら、また避けていたら、愚痴だけで努力をしなかったら、次なんて来ないってことになります。
自分を高めるために必要な期間なわけですから。
そこで、もう一度先ほどの。「高め”あえる”」かどうか、というところに戻ります。
お互いが一緒に自分を高めていければ、いいのですが、どちらか一方が高まり、もう一方が高まらなかったら、そこにはギャップが生まれ、うまくいかなくなって当然です。お互いに我慢だけの人生が待っていることにもなりかねません。
だから上記1と3から引用したような表現も生まれてくるわけですよね。納得!
でも大部分は、結婚や老化と共に、「高め合う」の逆の生活を送るようになり、結果ずっとつり合いが取れているのではないかなと思うので、あまり心配はないかもしれないですね(*^_^*)
”禅の言葉に「随処に主となれば、立処皆真なり」があります。
要するに、常に主体性を持った人間であればどんな場所にいようとも自分が主人公で、生きがいのある人生を送ることが出来るという意味です。お芝居にも主役がいて脇役がいます。主役だけがいてもだめで、脇役がいなければ、芝居は成り立ちません。でもお芝居を成立させる、という目的から考えれば、それは決して脇役ではなく、まぎれもなく主役なのだ、ということです。
人生も同じです。
誰もが「自立」して自分の人生を生きるべきです(2より引用)”
最初の方に、家さえも安定は生まない、と出てきましたが、自分に主体性、つまり軸であり信念、があれば、どこにいようと安定していられる、ということなんだなと思います。
「自立」
すごく大事なことだと思います。
特に女性は経済的に「自立」ができない(というか、扶養控除なんかがあるから働かない方が良いとか思っちゃうんですよね。私は、そんなの関係ないくらいに、女性でも働けばいいのに、と思いますが、「自立」することが面倒くさいのもあるのかもしれないですね。)ので、その時点で「高め合う」関係づくりから手を引いているのですが・・・。
でも人それぞれ。
これを読んでくださっている方のほとんどは、「自立」が難しい状況なのかもしれませんが、いずれは一人になる可能性もまたありますよね。
子供が巣立ったとか、夫が(妻が)先だったとか。
寿命的には、「自立」が難しい女性が一人残る確率の方が高いのではないかと思うんです。
そうなった時、どうなるかな・・・。
”未来に対する不安もまた「ガラクタ」です。
この不安もまたあなたの人生を向上させてはくれません。
心の中で予想していた未来と実際に起こっていることを比較すれば、予想がたいてい間違っていたことがわかるはずです。
未来に対して不安を抱くと、現在の素晴らしさを実感することが出来なくなります。未来に対して不安を抱いて心を乱す必要があるでしょうか。いいえ、ありません。現在に意識を集中する方が自分の為です。(3より引用)”
以前も紹介しました、私の教室に毎週通ってくださっている、当教室最高齢のSさん。(撮影時だけマスクを外していただきました)
今月がお誕生日で88歳です。
裏表のほぼない性格の私ゆえ、はっきりきっぱり伺いました!
娘さんは少し離れたところに住んでいて、旦那さんは15年ほど前に他界。
現在は1人でお住まいです。
いつもニコニコ、背筋もしゃっきりですが・・・
「旦那さんがなくなって一人になった時、どんな感じでしたか?」
「今後のことを考えて不安になることもあるんですか?」
こんな不躾な質問でしたが、それにもニコニコと
「夫が亡くなった時には、不謹慎なほどすぐに兄弟が私を旅行に連れだしてくれて、あちこち旅行に行っていました」
「将来のことを考えることもあるんですけど、割とのんびりしているので、それをずっと考えることはありません」
と、答えてくださいました。
本当に素晴らしく自立されています。
そのSさんの生の声でその言葉を聞けたことは、これを読むことより何倍も何百倍も心に残る経験となりました。
やっぱり、人と会い、人と話し、直接声で感じるって大事だと思います。
(今はオンラインの生活ですけど、それってこの先きっと何かしらの障害が出るとおもいますよ。)
”人生はゴールテープの連続。
死ぬ10秒前に「楽しかった」と思いたい。(1より引用)”
以前にも同じことを書きましたが、
私のゴールも同様で、
もうこれ以上はきっと話せない、もうこれが想いを口にできる最後だ、という時に
「あなたに会えてよかった」と、誰かに言いたいし
「あなたがいたから最高の人生だった」とも言いたい。
それは私が言うのか、相手が先に話せなくなりそうなら、もう理解できなくなるだろうという直前に私から伝えるのかは、分からないけれど・・・
感じている大きな人生の変化の流れに従って、さらなる人生と心の断捨離を経て
このゴールにたどり着けたらいいなと、
日々努力です!
PS:もう食べて消費するものしか買わないぞ!
と決めたのに、つい先日「チャッカマン」を買ってしまって、ちょっと自己嫌悪(=_=)