その後の検査で、膀胱から始まり、腎臓、肝臓、肺、骨髄、脳・・・とにかく全身に転移のある癌であり、余命も数カ月であることが、ここ1~2週間の間で分かりました。
父、と言っても、87歳のおじいちゃんです。
考えようによっては、健康診断も何もやらずに87まで元気に生きてきたのは凄い事です。
最後の1~2年は病魔に襲われているのを気付かずに過ごしていた事になりますが・・・。
これが私の父と母です。
恐らく最後に二人で写った写真になるでしょう。
母も元気ではありません。父がこんな事になってしまったので、何とか気丈に振舞っているという感じです。
もし、両親が人生の最後を迎える時がきたら、出来たら病院ではなく、家で迎えさせてあげたい、とかねてから思ってきましたが、痛みが強く苦しいし、歩く事もままならなくなり、尿も漏れてしまうし、母もそんな父を介護するだけの体力が無いし、という状態で、実際には家で最後を過ごすということがとても難しい事なのだなと思いました。
浜松から出て、東京の大学に行く時に、父と大喧嘩をした事を思い出します。
父は、私に、「この家も不動産も、家の財産は全てやるから、大学が終わったら浜松に戻ってきて、この家を継げ」 と言いました。
当然私は「自分の人生は自分で決める。私の人生を勝手に決めないでくれ。そんなこと言うならば、この家から出ていく。財産なんかいらない。」と、2人で大声で怒鳴り合いをしました。
兄は、強迫神経症という精神の病気で、私が小学校1年生の時に発症しました。
両親はその事は私には内緒にしよう、と、こっそり話していました。その言葉をちらっと聞いてしまった小1の私は、当時は頭の回転がよかったようで、たったそれだけの会話の内容から、全ての状況を把握してしまいました。そして、内緒にしようと言っているのだから、私は知らない事にしないといけないのだな、という事まで瞬時に理解しました。
だから、近所のおばちゃんたちに色々聞かれても、大人のようにうまく話をごまかすなんて事も覚えてしまいました。
最初から知っていたよ、というのを打ち明けたのは、大学に行く直前だったように記憶しています。
発症時、大学生で東京に出ていた兄は、大学に行かなくなり引きこもり、そのうち家に戻ってきて、そして・・・家に置いておける状態ではなくなり、精神病院に何度も、何年間も入院していました。
どういう状態かというと、イライラして物を壊したり、大声で叫んだり・・・。私が小学校から帰ったら家の窓ガラスが全部割れていたり、茶碗やお皿が台所の床一面に割れて散乱していたり、父親の顔を真っ赤に腫れあがるまで殴ったり・・・色々ありました。
兄と姉は歳が近いので、姉は幸い大学生で岐阜に住んでいたので、そんな状態を見ることなく過ごすことが出来ましたが、1人年の離れた私は小学1年生から高校3年生までの12年間、こんな状態を見て過ごしてきました。それでも大学に入る頃には兄も少し落ち着いてきていましたが、とにかく家から離れたい、その一心でしたから、「家を継げ」なんて、とんでもない話でした。
少なくとも兄の病気に私は何の関係もないわけです。
家に戻る=兄もついてくる わけですから。
その後も父には何度も「お兄ちゃんは今後どうするの?」「あの人の見の振り方はどうするの?」と聞いてきましたが、その度父は「どうにかするよ」とか「どうにかしないといけないけど、どうにもならんだぁ。まあそのうち何とかなるらぁ(方言)」と言いました。
時は経ち、そんな兄も58歳。
いまだに病気は治っていませんが、以前のように暴れることはなくなりました。
私は家には戻らない人生を選び、現在埼玉で暮らしていますが、時々浜松に遊びに行った時に兄を見ては、随分病状は落ち着いてきているなと思うようになっていました。
そして先週末、浜松に戻った時に、父に言いました。
何度もお父さんには「お兄ちゃんをどうするの?」って聞いたけど、「そのうち何とかなるらぁ」って言うだけで、結局何ともならないうちに病気になってしまったね。
あん時(大学に出る前に喧嘩をした時の事)さ、家には戻らないって言って喧嘩したけど、結局は私がこの家の全責任を総括して受け持つしかないね。名字は変わったけど、ほらね、こうやってちゃんと戻ってきたでしょう?
お兄ちゃんも私が何とかするから、もうお父さんは安心していいよ。
父はそれを口にすることはありませんでしたが、やはり私を頼りにしていたようで、そう言ったら黙ってうなずいていました。そしてそれがあたりまであるかのようにすんなりとバトンを渡してくれました。
実際私にそんな力があるのかどうかは分かりません。
でも、人生っておもしろい、そう思えるようになりました。
父親の死を目前にしておもしろいとは何事だ!という感じですが、本当に面白く感じています。
人生に「たら」「れば」は、あり得ませんが、あの時父親の言う事を受け入れ、大学が終わったらすぐに浜松に戻るような私だったら、こんなセリフは言えなかったし、実際にどうしていけばよいのか分からずに困っていたのではないかと思います。
浜松に戻らずに、色んな人と出会い、別れ、ヨガに触れ、ブッダを読み、色々な縁が生まれ・・・そんなことが巡り巡って、今やっと私に任せて、と言える「私」になったんだなぁと、自分で実感しています。
無駄なようでも無駄ではないし、回り道に思える事も一つ一つ大事なことだったし、それは今後もきっと同じだし、「今」現在も同じだな、と。
そんな事に気がついてくると、全てが大事だし、全てが楽しいし、これがどんな風に今後に繋がるのだろうと思うと、わくわくしてしまうのです。
兄も1人の人間です。でも今まで人間ではなく物のようにみんなに扱われていたように思います。大変な事もあるとは思うけれど、そこから得るものもあるはずです。さあどうなるのか?逃げずに頑張ってみます。
父に対しての願いはたった一つ。
痛みだけは感じさせないようにしてあげたい。
肉体はもうボロボロになってしまったから、この辺で自然界に戻す時が来たのだろうと思います。
でも、大事な大事なその中のものは、ずっと私の中で生き続けますから。
生、死。
過去、現在、未来。
出会い、別れ、縁。
そんなものが今、私の中でぐるぐると渦巻いています。
何か大事なことが分かりそうで・・・まだ分かりません。
でも凄く単純な事のように思います。
それが分かるまで、私はとにかく「今」を一生懸命に生きなくてはいけないな、という事だけは分かりました。
もう残りが少ないから。
父との「今」も、一瞬一瞬、大事に過ごしていこうと思います。
父は、この瞬間という「今」の大事さを、身をもって最後に私に教えてくれたように思います。
父の日までは生きてくれるかな・・・。
ありがとう、お父さん。