雑草 | HIROのホリスティックヘルス探究記

HIROのホリスティックヘルス探究記

人を「本当の健康」に導きたい!大きすぎる人生目標がある。人は十人十色。みんなみんな違うのに「この方法なら大丈夫」なんてのがあるわけない。どうすればいい?まだまだ探究中。そんな私の探究記録です。

去年7月からブログを書き始め、もう半年たったんだなぁと・・・大きく変化した半年間を振り返り、半年前よりも強くなっている自分を感じ、また半年間で得た出会いや繋がりのありがたさも感じ、頑張り続けなくてはいけないなと自分に言い聞かせている今日この頃です。
でもあくまでもその時に吹く風に乗り、無理せず急がず漂うつもりです。
○○党は凧だ!風が吹かなきゃ飛べない、とか、先だっての選挙の時に政治家の方がおっしゃっていましたが、風が吹かなきゃ自分で風を起こす、とまでは私は考えません。
一見風はないように思えても、全く動きの無い事なんてないですから、無理する事よりその時の流れと調和する能力を身につけるよう考え、次に来る風にうまく乗れるよう準備をしておこうと思います。
「無理して良い事はない」
私の人生においては、だけかもしれませんが、そんな人生哲学が私にはあります。
でも、無理と頑張る事とは違うと思います。
頑張りは必要です。
その違いは何か? よく分かりませんが、他人を巻き込み他人に迷惑をかけてまで自分の為に何かをしようと思うのは無理、他人には関係なくただ自分を鍛えるのは頑張り、でしょうか?

年末に実家に帰り、90近くなり随分年老いた父親を見て、私はもっと頑張らなくてはいけないと心底思いました。
何を頑張るのか。
それは、心を強くする事です。
まだまだ弱い私の心は、時々不安になります。負けそうになります。怖くなります。
でも、父、そしてその母親である祖母の心の強さを見て育ってきたので、そんな時にはいつも「おばあちゃん、私に強さを与えてください」と、手を合わせます。

父は大正生まれでもうすぐ87歳。祖母は既に他界していますが明治生まれの人でした。
私には15歳年上の兄と、11歳上の姉がいます。なので両親が90近いのです。
父はその時代の人としては珍しく一人っ子です。なぜかというと父が3歳の時に父のお父さんは肺炎かな?で亡くなってしまったからです。その後祖母は再婚する事もなく、女手一つで父を育てました。貧乏だったそうです。仕事は百姓。父はいつも梅干しが1個だけ入った日の丸弁当しか持っていけず、随分いじめられたようです。それでも祖母を助け、学校に行く前に田んぼへ行って手伝いをし、学校から帰るとまた手伝いに行き、そんな風にして過ごしてきたそうです。
祖母は少しも休むことなく働き、そんな暮らしの中でも少しずつお金をため、農地を増やしていきました。その頃は土地は高くなかったので手が届いたのだと思います。「まず土地を増やさなくてはいけない、そして増やした土地は決して売ってはいけない」、それが祖母の考えであり、しっかり実現させてきました。昔の人ですから結婚したのは16とか言っていました。20歳そこらで未亡人になり、子供を育てながら土地を手に入れるまで何十年かかったか。でも祖母は決してくじけず、強く、真っ直ぐに正しいと思った道を突き進みました。そしてその判断、先見の明とでもいいましょうか、確実でした。
私の覚えている祖母は、決して怒らない、いつも顔には笑みのある優しいおばあちゃんです。でも、心は芯は強かった。子どもながらに何となくその強さは感じていました。決して泣く事もなく。「泣いて何とかなるなら泣けばいい。泣いてもどうにもならないからわしゃ泣かない」そう言っていたそうです。

そして父。
これもまた強いです。
私の兄は私が小1の時に病気になりました。強迫神経症。精神病です。それはそれはひどかったです。家の中で暴れ、ガラスを割り、父を殴りつけ・・・今では良くニュースに出てきますが、当時はそんな事も少なく、でもリアルにそういう光景を目の当たりにしてきました。
小学校から帰ったら家の窓が全部割れていた事もありました。包丁を持って暴れるのを、父が必死で抑えた事もありました。
姉はその頃大学生。岐阜に行っていたのでこういう一番ひどい時は見ていません。
私は全部見てきました。
兄の発症は兄が大学に入ってから。弁護士になれ、そう父に言われ、兄なりに必死でそれに応えようとしたのでしょう。自分の子ども時代のような思いをさせたくないと、兄を過保護に育てていた父。過保護に育ったのに大学では単身東京に送りだされ、何をどうして良いのか、生活も勉強も何もかもに無理が掛ったのでしょう。壊れてしまいました。
もともとこういう病気の素因があった事に気がつかず、無理を掛けたのが原因だと思います。
私の小学校~高校時代は家の中はこんな感じが続いていました。
大学で東京に出られた時には正直ホッとしました。
でも、父は、この現実から目をそむけずに、毎日戦っていました。
父はまた、兄が発症してから間もなく、今でいうリストラに合い、職も失ってしまったのですが、ため息をつく事もなくすぐに安いアルバイトのようなものを探し働きに行っていました。
そしてどんな時もイライラせず、顔には笑みを浮かべ優しく接してくれていました。
「祖母が増やしてくれた土地に、自分の名前がついたアパートを建てるのが夢。そうして自分をいじめた奴らを見返してやりたいんだ!」そう言っていたそうです。今ではちゃんと何棟かの小さなものではありますが、名前の付いたアパートが建っています。

二人とも、どんなに気持ちが沈む日々を過ごしたことか。
逃げ出したくなる事はなかったのだろうか?
でも逃げずに現実を見て、そこから脱却するためにどんなに頑張ったことか。
涙も見せず愚痴も不平も言わず。
何十年もずっと。
私の前ではいつも微笑んで。

祖母にも父にも地位も名誉も無いですよ。
立派な勲章も無いし、賞状さえありません。
洋服はいつも同じ、お世辞にもきれいとは言えないものを着ていますしね。

でも、私はこの心と芯の強さに父、そして特に祖母を尊敬しています。
私の中にはこの二人の血と気が流れています。恐らく兄姉の中の誰よりも。

私にも地位も名誉もありません。
学会発表もしていないし、博士号もありません。
だから私もいつも人をみる時には地位や肩書にはとらわれず、その人自身を見ます。
私はそんなものよりも、心と芯の強さがほしいです。

サラブレッドは楽でしょうけど、残念ながら私は真反対の雑草から育ちました。
楽じゃない。
でも、雑草は強い。
今はまだ丈の低い雑草です。
私も何十年かかけて、背の高い、根の長い立派な雑草に育ちたいと思います。

強くなりたい。
今年はこれが課題です。