アースリング | チロ・ツグミ・メリーと 動物問題 ~ ヴィーガン ~

チロ・ツグミ・メリーと 動物問題 ~ ヴィーガン ~

愛猫チロとツグミ、愛犬のメリーと暮らしています。
主に、動物問題について書き記します。
超偏食&料理経験なしでしたが、畜産の悲惨な実態を知ってから、ヴィーガンになりました。

以下の動画をご覧ください。

とあるヴィーガンの活動家が、イギリスの複数の大学の学生に向けたスピーチです。

 

以下は、字幕を抽出したものです。

文字で読みたい方はこちらをご覧ください。

 

****************引用****************

 

最初に言っておきたい:
僕は生まれたときからビーガンではない。

生まれたときからベジタリアンでもない。
21年間も肉・乳製品・卵を消費した。

消費だけじゃなくて大好きだった。
美味しくて毎日食べたかった。

食感も味も大好きで、
食べた時の満足感が最高だった。

毎週ドミノピザを注文した。
BBQ味やミートラバーを選んだし
Wモツァレラトッピングが鉄板だった。
チーズインクラストもね。

地元のKFCに行きすぎて店員さんが僕の名前と定番の注文のスパイシーチキンまで覚えててくれてた。

入店すると「やあ、エド。ジンガースパイジーチキンでしょう?」と言われて
「分かってるね。待ちきれない」と僕は言った。

ほらね、本当に好きだったんだ。

革製品やウールやシルクやダウンも着てた。
化粧品やシャンプーを買うときは動物実験なんて気にしたことなかった。

動物園は好きだった。
動物が大好きだったからね。
動物を間近で見れて楽しいなあと思ってた。

決して生まれたときからビーガンではなかった。
ビーガニズムで育ったわけではない。
自分で勉強して悟ったんだ。

人生が変わり始めたのは5年位前。

当時ベジだった友達とピザを食べようとして
「ベーコン  載せにしない?」って聞いたら即答で「ダメ」だと。

「なんで?ベーコンを食べないなんて!ベーコンのないピザはピザじゃない」と僕が言うと
「エド、ピザのトッピングのために動物が死ぬべきじゃない」と彼は言う。

「でも家畜はそのためにいるんじゃない?」と僕は言った。
「我々は命を与える代わりにベーコンをくれるさ」
ベーコン命だった。

はい、僕もベーコンが命の男だった。
皮肉にもベーコンが死そのものだけどね。

その時までは何気なく動物を食べてた。
動物を食べない理由なんて考えたことなかった。
動物を食べるのは普通、自然、必要だと思ってた。
毎日食べてるしなぜ疑問視する?

そして4年前、2014年5月にあるニュースをBBCで見た。
7000羽の鶏を運ぶトラックがマンチェスターの高速で事故ったやつ。

そのニュースが気持ち悪くてね。

何千羽の鶏が衝突死してるとジャーナリストが語るわけ。

実際に1500羽ぐらいが事故死したと思うんだけど、
それよりもトラウマになったのが生き残った無数の鶏だった。

みんな羽などを骨折してたし顔が文字通り垂れ下がってた。

くちばしやトサカが垂れ下がってる映像を見た。
でも生きてた。苦しんでた。痛みを感じてた。

その記事を読んだときは動物達の恐怖を想像した。
どんな苦しみに耐えてたか。

でもそのときに思い出した:

冷蔵庫の中に鶏の胸肉が入ってる。

もも肉も。先日はKFC行ったし。

自分が偽善者だと気付いた。

僕があの動物達の肉を食べるからそこにいるわけなのに可哀想だなんて。

僕が食べたいから殺されるのに。
その記事が何もかもを疑問に思うきっかけになった。

自分の生活スタイルや行動をね。
考えたこともなかったことを。

動物のこんな扱い方が道徳上で許せるものかと自分に問いかけた。

僕の味覚芽(みかくが)が動物の命より大切か?

動物が可哀想。そう思う自分が偽善者。
彼らがそこにいるのは消費者の僕がいるからだ。

その日に決意した:
ベジタリアンになろうと。

乳製品や卵の実態を知ったときはビーガンになった。

このスピーチの目的は罪悪感にさせることではない。
あなたが悪い人間だと言ったら嘘になるから。

道義に反してる生活を送ってるって責めれる程簡単な話じゃないから。

この動画の目的は自分の行動を振り返るためだ。

僕があのトラック事故のニュースで自分を振り返ったと同じように。

今までの生活を一度疑問視しよう。
自分に問いかけよう。

自分にとって、味覚芽が動物の命より大切ですか?

動物の肉を必要としていないのに命を奪うことは正しい行いですか?

これらの疑問を僕は持った。
あなたも一度疑問視してくれるといいなあ。

どの考えでも時間をかけて社会に浸透させたら、社会規範になっていく。

その社会規範を活かしていけば文化と化する。

文化を次の世代に残すことで伝統となる。

世界中のどこを見ても、文化と伝統とされてるものが必ず良いとは限らない。

例えば世界中には男性が女性をモノ扱いする文化もある。

道徳的に許せないでしょう。
女性器を切除する文化もあるけれども
伝統だからって言われてもやっぱり道徳的には許せない。

同じ理屈を非人間的な動物に当てはめよう。

中国のユーリン犬肉祭では毎年数えきれない程の犬と猫が繁殖させられ、体の部位を切断され、殺されて、最終的に食べられている。
文化や伝統だからって犬を殺して食べることは道徳的になりますか?

韓国のボクナルでも毎年の祭りで無数の犬や猫が殺されている。

道徳的ですか?

日本では毎年無数のイルカが虐殺されている。
伝統だからって道徳的ですか?

デンマークのファロー諸島でも毎年無数のクジラが虐殺されている。

伝統だからって道徳的ですか?

異文化園の動物虐殺が道徳に反しているなら牛や豚や鶏を殺すことはどうですか?

羊と鴨とアヒルもね。

この国で殺して消費する全ての動物。

昔からやってるからで済ませられますか?

文化だから?
伝統だから?

社会が生み出す偽善的道徳が不思議なものだ。
そもそもなぜ動物を区別しますか?

なぜですか?

なぜ犬が虐待されて殺されてるとみんなが激怒するのに
豚や牛や鶏が殺されてるのを悲しんで怒る人はあざ笑われるのはなぜですか?

韓国の冬オリンピックのとき、大勢の人が韓国の犬を食べる文化を怒ってるのに違和感を覚えたね。

 

「冬オリンピックをボイコットしよう」とまで言っていた。
「犬が食べられる国には行くな」とアスリートに求めた。

犬を殺して食べるから。

食用の犬を数匹救い出したアスリートもいた。
彼らはヒーローと呼ばれてた。

動物の英雄・救い主・愛護者となったけど、犬を助けながら帰ってきてチキンを食らう。

牛も。豚も。

なぜ差別するの?
全ての動物は同じ命なのに。

みんな考えてるし、気持ちがあるし、苦しみだって感じられる。

愛を与えることも受け入れることもできる。
愛される価値のある命です。

それを奪う権利はなんだ?
生死を決める権利はいったいなんだ?

痛み、苦しみと死を強いる権利はなんだ?
動物は苦しみたくないのに。死にたくないのに。

今動物製品の消費を最も正当化する言い逃れは食物連鎖云々だ。

食物連鎖はきわめて重要。

自然界では生態系や野生動物の生息数のバランス維持の役割を果たしている。

動物たちがその領域の生態系を生かしている。
各生態系の存続の基盤となっている。

だけど私たちは動物の一部を大量繁殖させて、強制的に妊娠させて、赤ちゃんを奪って
体の一部を切断し、私たちのものではない乳や卵を搾取して、
屠殺所に運んで、ひっくり返してフックにかけ首を切ることは食物連鎖とは全く別ものだ。

自然界で見受けることはまずない。

生態系の健康的な生息数の維持とは全く無関係だ。

私たちのやり方は食物連鎖とはほど遠い。
真逆の法則だから。

もし今この部屋に生きた豚を運んで生まれつきの体だけで殺せと言えば?

野生の肉食獣はみんな生まれつきの特徴を持つ:爪や牙。

生まれつきの武器だけで豚を殺せと言えばできる人は何人いると思う?

実際は豚に近づけば豚が仰向けになってくすぐってほしいでしょう。

豚はお腹をなでられるのが大好きだから。
豚と会ったことある人にはわかるでしょう。

豚を攻撃したつもりで豚はお腹を出して喜ぶわけだ。

私たちに元々備わってる武器がないから。
攻撃的な肉食獣じゃない。

でも豚を殺せたと仮定しよう。

今、目の前に豚の死体がいる。

内蔵がむき出しになっている状態で。

ちゃんと殺せたから今腹の開いた豚がそこにある。
生肉を食べますか?

内蔵は?大腸は?軟骨は?

筋や脳みそや考えるだけで気持ち悪い部位は?

食べますか?
そこだけ残しますか?

そういうのを見ると気持ち悪がる人がほとんどだ。
「食べれなくなる」って言う。

グロい映像を見せると
「食べれなくなるから見たくない」と言われる。

なぜですか?

なぜ肉を作る過程を見ると食欲が失せるわけ?

動物を食べるのが人間の本性ならば見るのに耐えるのはもちろん、自分でも殺せるはずなのに

動物が死ぬ場面でお腹が空く人は少ない。

衝撃を受ける。怒りを覚える。悲しくなる。絶望を感じる。

この苦しみは何のためだ?と思う。

もし我々は本能的に肉食だったら気にしないはずなのにだいたいこの反応だ:

「食べれなくなるからこのドキュメンタリーを見るのはイヤだ」

なぜですか?

SNSで時々こういう記事の拡散を見かけない?

「KFCを食べたらチキンの脳みその一部が混合しててあり得ない」

KFC宛に「よくもこんなものを!」と怒りのツイートを発信する。

鶏の死体の飯に鶏の一部が入ってたなんてね。

「鶏の死体の一部がフライドチキンから見つかる」という題名を実際に見たことある。

何が入ってると思ってたんだ?
フライドチキンは当然鶏の死体が入ってるよ。

だけど脳みそや腎臓の一部がわかる形で入っていると

いきなり気持ち悪いことになって もう食べたくないって?
おかしくないですか?

動物を食べるのが人間にとって自然なことなら なぜ体の一部を見るだけで拒絶しますか?

仮に今この部屋に牛を連れてきてみんなに鋭い包丁を見せて

「牛の喉を切れる人、手を上げて」って言ったら、この中にできる人いる?

もしくは牛ではなく6ヶ月の子羊だったら?

誰が平気で頭を切り落として、足を切り落としてラム肉を楽しみますか?この中にいる?

それより、もし1人がやると言ったら、反対する人はどれ位いる?

かわいそうな動物を殺すヤツを止めさせようとする人や 部屋を出て見てみぬふりをする人はどれ位いる?
例えば街角で犬が虐待されてる場面に出くわしたら助けますか?対抗しますか?
止めさせますか?せめて警察に通報しますか?

犬じゃなくて目の前で虐待を受けているのが豚だとしたら?

豚でも止めさせますか?命を助けようとしますか?警察に通報しますか?

例えばその虐待を受けている豚が壁の裏で虐待を受けて目に見えなくなったら
それだけで許せるものになりますか?

目に見えない形なら殺しは道徳に反していないですか?

それとも殺すことはどんなときでも道徳に反していますか?

動物が殺されるのを目撃したら多くの人は対抗するのに
家に帰ると油で揚げた豚肉や焼いた牛肉や羊の脚を食らう。

私たち人間には道徳心というものが備わっている。
基本的に全てはそこにつながる。

道徳心というのは、正邪を区別しその上で選択する能力だ。

重要なのは、選択することに対する責任を持つということだ。

野生動物は選択することに対して責任を問われることはない。

だからライオンや虎は私たちにとって道徳の見本にはなれない。

殺すことは彼らにとって不可欠。

完全肉食獣だから動物の肉を食べないと生き残れない。

私たちは違う。

肉を食べなくてもいいからこそ最小の苦しみを保証する商品を選択するという道義的責任がある。

同時に、苦しみの上で成り立ってる商品を購入すると私たちは責任を問われるし批判の対象にもなる。

ちょっとイメージトレーニングをしよう。
赤ちゃんの入ったカゴがそこにあるとしよう。

赤ちゃんと一緒に入っているのは生きたウサギと苺です。

どっちを赤ちゃんは食べますか?
どっちと遊びますか?

もう一つ頭に入れておこう。
FBIによるとほとんどの連続殺人鬼は子供のときに動物を虐待する癖があるそうだ。

テッド・バンディがちっちゃい頃動物を虐待していた。
ジェフリー・ダーマーもそう。

なぜ有数の犯罪心理学者たちがそういった子供の動物に対する虐待に注目しているのか?

大人になってから未来の他人に対する虐待への警告になり得るからだ。

ライオンは子供に殺すことを教える。

虎も子供に殺すことを教えるしヒョウもそうしてる。

だけど私たちは子供に殺さないようにと教えるんだ。

なぜだろう?
既に備わっている我々の慈悲心に反してるから。

カゴの中の赤ちゃんがもしウサギを食べようとしたらあなたの反応は?ほらね。    

その子はちゃんと見といた方がいいと思ってしまう。
動物に噛み付いた子はちょっと問題あるかも。

だけど大人になるとみんな結局同じことをする。
動物を食べる。

なぜ子供が動物を苦しめるのは見たくないでしょう?

もしこの世に生まれてくる全ての子供は

鶏の命も愛犬の命と同じ価値があると
もしくは私たちと同じ命だと教わったら?

生まれてくる子供が、海にいる一生会うことのない、直接関係のない魚も
自由自在に生きる権利があると教わったら?
人間に苦しい思いをさせられずに。搾取されずに。

その教えで育った子供は一生
他人をいじめたり圧迫するはずがない。

たかが人種や性的指向やルーツのために。

そんなバカバカしい理由で私たちは人を圧迫してきた。

全ての命は大切だと教わって育った子供は差別主義者にはならない。

全ての命に尊敬と威厳と愛で向き合うから。
ありのままの生き方を尊重するから。

肉食産業はこの映像で見る内容の全てを把握している。

衝撃で怒ったり悲しんだり傷ついたりすることもわかっている。

だから真実を隠してるんだ。

だから宣伝やラベルで事実と異なる絵を見せられるんだ。

最もいい例は「放し飼い」ラベルだ。
昔は意識して買ってたんだ。

放し飼いの鶏の卵は道徳にかなったものだと思ってた。

スーパーで放し飼いの卵のパッケージを見かけたとき
私たちの「解放」の理想をそのラベルに重ねるんだ。

私たちにとっての解放は自由に生きることを意味している。

好きなだけ友達や家族と過ごす事とか。

そして最も大切なのは安心できる生活だ。

平和、調和、圧迫されない生活、不当のない人生、苦しみのない人生。

放し飼い卵のパッケージを見た時はきっと幸せな鶏だったんだなと思わせられる。

彼女たちは自然に生きてるだろう。
仲間や家族と一緒だったんだろう。

その鶏は自由で、不当な扱いもなく、安心できる場所で、苦しみのない一生だと思ってしまう。

でも真実じゃない。
本当は嘘だって分かっているんだ。

放し飼いの鶏が生まれた農場ではオスのひよこが生まれたてでシュレッダーやガスで殺されている。

多くのメスはくちばしを切断されて狭いバッテリーケージに入れられ一生日差しを見ることはできない。

死ぬまで新鮮な空気の味を知らない。

放し飼いの鶏であっても最後は屠殺所行きで喉をナイフで切られると分かっているんだ。

放し飼いに「自由」は存在しない。

もう一つの嘘は「人道にかなった屠殺」。

「人道にかなったやり方であれば動物を殺すのは許せる」

質問です。

どうしたら人道的に動物の命を奪えますか?

「人道」の意味を考えよう。

「人道」とは慈悲心と哀れみのある行動を意味している。

質問に言い換えさせていただくと
どうやって慈悲や愛で動物を殺せますか?

死にたくない動物を。
死ぬ必要がない動物を。

無理です。
人道にかなった屠殺は矛盾そのものだ。

死ぬ必要がないのに命を奪うことは正当化できない。
故に慈悲心を持ちながら殺すことも不可能だ。

もう一つのスローガンは「ハッピーな牛のハッピーな牛乳を」
これからその洗脳が増えると思う。
「ハッピーな牛のハッピーな牛乳を」を分析しよう。

いくつか質問します。

強制的に妊娠させられた牛はハッピーですか?
赤ちゃんを奪われた牛はハッピーですか?
母親が赤ちゃんを奪われてハッピーなのですか?
赤ちゃんのためにあるはずの母乳を搾取される母親はハッピーですか?

トラックにつり上げられ屠殺所に運ばれるとハッピーですか?

ボルトガンを頭に打たれ首をナイフで切られたらハッピーですか?

カンチガイしないで。
乳製品には「ハッピー」なんて存在しない。

間違ったことを正しくする方法はない。
必要でもない動物の搾取はずっと間違ってる。

正当化はできない。

産業のラベルやうそやCMやプロパガンダを
信じないで。

お金が儲かりたいだけだ。
需要がある限り彼らは続けます。

だけど真実を知ったら人々は商品を買わなくなる。
客を騙さないと商品が売れないわけだ。

私たちがお金を出すから。彼らの儲けになるから。
動物を搾取した儲け。

嘘だらけです。営利目的のために。
ハッピーな動物のラベルを見たときに思い出してね。

動物達は苦しんでいる。
死が待ち受ける日まで苦しみしかない。

ここまではほとんどの人は動物の扱い方が間違ってると納得している。

道徳にかなってない。

じゃ産業を悪評するよりシステムを改善しないのはなぜだ?

なんで人道的な農場に変えていかないか?
なんで放し飼いを解放に直結させないか?

残念ながら、もし経済や環境に余裕があって動物たちに
見渡す限りの緑の芝生を与えたとしても
赤ちゃんを盗まないシステムを開発してのびのびと生活させても
体の一部を切断しなくても強制妊娠させなくても、それでもずっとずっと大切な命を奪うことになります。
動物搾取の真実はこれです。

どの産業でも、彼らの命はずっと奪われつづけます。

どんなに良質な生活を許してあげても、芝生から屠殺所をつれて命を奪ったときは虐待でしかない。
正当化不可能。

アニマルウェルフェア商品も嘘だ。

動物のことを考えた商品より罪悪感をなくさせる商品だ。

スーパーに並ぶ肉のどんなラベルでも動物にとっては変わりはない。

「オーガニック」や「アニマルウェルフェア」や「餌にこだわった」と書かれても結果は同じだ。

動物を助けるラベルではない。
罪悪感にならないで買わせるラベルに過ぎない。

ずっと引っかかってるのはユーリンの犬肉祭に反対するときは
「犬を殺すなら人道的にやってくれ」とは言わないことだ。

広いケージに入れて放し飼いと書いたとしても犬を殺すのは道徳にかなったことだと思わない。

「犬の命を食べるために奪うのは間違ってる。
非人道的で今すぐやめるべきだ」とばかり言う。

ネットの署名アクションは「広いケージにしてあげて」の内容ではない。

「ラベルを変えろ」でもない。
犬肉産業の廃止を求めるわけだ。祭りの廃止を。

聞いていい?

ユーリンで食べられるラブラドールのステーキに動物虐待防止協会のマークがついてたら道徳的になりますか?
ユーリンのひき肉になったチワワに食品標準品質のラベルが載ってたら道徳的になりますか?

もし東南アジアで殺される犬と猫を全てイギリスに連れてきてここの屠殺所に運んで
この国の動物と同じように殺したらあなたの目で見て道徳的になりますか?

もしならないなら一体なんで私たちが食べる動物を同じ方法で殺すのが道徳に反していないと思えますか?

もし家に犬や猫、ハムスターやウサギ等のペットがいるなら、大切にしてる動物がいるということになる。
もし安楽死をする必要が出てきた場合 屠殺所に連れていきたいですか?
もし嫌なら屠殺所はどれだけ人道に反してるかと気付く瞬間だね。

動物はたった一つの命があります。
たった一度だけ。

肉や分泌液が美味しいからってそのたった一つの命を奪う私たちは何様ですか?

一食は数分のことです。大した時間ではない。
すぐに忘れてしまう。

だけどその一食は動物の一生を犠牲にしてるんだ。
数分の楽しみのために私たちは命を奪う。

それを許す権利はなんだ?
人類とか大きいスケールではなく個人としてもね。

もう一度聞かせていただきます。
僕やあなたの味覚芽が動物の命より大切ですか?

決して必要ではない殺しをどう正当化するつもりですか?

今はビーガンだけど、食事に不自由しない。
昔と同じような食事が楽しめる。恋しいものはない。

チーズソースやミートソースのパスタ、ラザーニャやカレーやナチョス、ファヒータやタコス…。
ケーキやマフィンやチーズケーキやチョコパイもね。

昔から好きな食べ物は全部手に入る。
動物を一切傷つけずに。

死んだ動物が入っていない。

搾取した分泌液も入っていない。

骨も入っていない。
 

ホルモンも入っていない。
抗生物質も入っていない。

植物でできてるから。
それだけ。

ビーガンは食の選択肢が限られるって言われるけど、
ビーガンになる前はミルクは一種類だった:牛乳。

今はオートミルク、ライスミルク、豆乳、ココナッツミルク、アーモンドミルク
カシューミルク、ヘーゼルナッツミルク…

ビーガンになるまで聞いたこともない食材で料理を作ってる。

昔は冷蔵庫を開けると鶏の死体だらけだった。
時々牛や豚の死体も。でもほとんど鶏の死体。

今は冷蔵庫を開けるとまるで庭のようだ。
彩りがあって。

楽しみにできる食材の種類がずっと多くなった。
ビーガンになったら料理を再発見したんだ。

聞いたこともなかった食材で。
だからこそ食事は今までにない楽しみになってる。

新しいグルメの体験がたくさんできる。
色んな味に出会えるきっかけとなった。

今はアメリカ栄養士会とイギリス栄養士会は両国の栄養士会の最も大きい組織なんだけど
ビーガンの完全植物性の食生活がどの歳や人生過程においても適切だと断言してる。妊娠時を含む。

健康でいるための全ての栄養素やビタミンなどが植物から摂取できるということだ。

はっきり言うと動物の搾取の必要性は全くないんだ。

社会の役に立たない。廃止すべきだ。
持続させる理由がない。

完全植物性の食生活で生きていけるから。
それが人間の体に最も合う自然な食生活だ。

もう一つ。

地球上の最も大きい動物、特に陸上動物の象やサイやカバは共通点が一つ:草食だ。

皮肉なことに草食のカバが動物界で最大の牙を持っている。

つまり牙は肉を切り裂くだけのためにある
という神話はおしまいだ。

最大の牙は草食動物が持ってるんだもの。

ゴリラと人間のDNAは98%も一致してて消化管は人間とほぼそっくりだ。

時々虫をつまむことを除いて
草食動物です。

もちろん私たちはゴリラでもないし、
サイやカバや象でもない。

ただし一緒なのは、強くて健康的になるのに
動物性の食品は必要ではない。

「雄牛のように強くなるには肉を食べるんだ」
という言い方があるけど、雄牛は草食です。

強くなるのに動物性のものは要らない。

次は過酷な情報だからひねくれた
言い方はしないでおくけど

人類、特に欧米社会においての国民病に関する
情報だ。実際は僕の大切な人もかかってる。

心臓の病気、乳がんや前立腺がんなどのガン、
腸の病気、糖尿病、骨粗鬆症、認知症、高血圧、卒中…

これらは全て大変な程度で
動物性のものの摂取によるものだ。

ようするに菜食に切り替えることで
予防になるのはもちろん、病気を治すことも可能だ。

欧米には今もう心臓病や糖尿病を動物性食品から完全菜食に変更するだけで治してる人が急増しています。

動物性のタンパク質から植物性のタンパク質に変えることは
ゆっくりと殺されていく食べ物を寿命を延ばす且つ生活質を上げる食材に変えることだ。

畜産業が環境問題に関しても責任を負っている。
人類の致命的な問題だ。

家畜による温室効果ガスの方が全ての交通機関を合わせた排出量を超えてる。

アマゾン原生林の破壊の91%は畜産業が原因。

土壌浸食や土地の砂漠化と海中デッドゾーンの原因でもある。

海の中の広い面積ですでに生き物は絶滅している。

実際に一部の研究者は2048年までに海の魚は全て消えると推測している。

私たちが生きてる間、魚が海から消えるかもしれない。

畜産業のせいで絶滅する動物が後を絶たない。

覚えてて。

この世には私たちの動物性商品の摂取の悪影響を受けない生き物はいない。

もう一度聞きます。
私たちの味覚芽が動物の命より大切ですか?

でもそれだけではもう済ませられない。

それより、私たちの味覚芽が動物の命や人類の存続やこの星の命、つまり地球上の全ての命より大切ですか?

子供たちや孫にどんな未来を残したいですか?
子供や孫に未来があってほしいものだ。

情報は出てるよ。

国連が地球温暖化を防ぐのに必要なのは菜食だと発表している。

ビーガンの活動家やビーガンの組織のビーガンを広めるためのプロパガンダではない。

国連の正直で強いメッセージだよ。
生き方を変えないとダメだと。簡単なはずだ。

変わらないと末の結果は私たちが食らう。今日の行動の結果が近未来の私たちの世代に返ってくる。

だから最後にいくつかの質問を投げかけたい。
毎日得られる情報量がこんなにもある。

携帯やパソコンを取り出してこの映像の他、沢山の偏ってない中立的な情報を引き出せる。

動物性の商品の真実と健康被害を明らかにする情報や
動物性の商品の環境への悪影響を明らかにする情報。

産業が隠しておきたい情報は得られるんだ。

この情報が手に入ったときから私たちの道徳心が転機の時だと責任感に呼びかけるのではないですか?
無視しつづけますか?
見て見ぬ振りをして自分の行動が他の生き物に悪影響があることに無関心でいいですか?

それとも一つひとつの買い物が、どんなに微力に思えても、

たくさんの命に大きく影響していることを受け入れるべきですか?

一つひとつの買い物は世界を変える投票になりえる。

動物が虐待を受ける世界と受けない世界、どちらに票を入れますか?

個人としての一つひとつの買い物は巨大な力を持つ。

その事実をつかめるのは難しいけど、理解しなければいけない。

あなたに自分の頭で考えてほしい質問はこれ:
今になって私はどう弁解できますか?
どう正当化できますか?

思いつかないならこの質問を考えてください:
私自身が変わるべき時ですか?

最後まで聞いてくれてありがとう。

 

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動画の活動家は、エド・ウィンターズという方で、イギリスのヴィーガン活動家(今はアメリカに行っているとか)。

Youtubeもされており、登録者は44万人。

ほとんど英語なので見てもさっぱり分からないのですが、少しだけ日本語に翻訳されたものがあり、

その1つが冒頭の動画で、日本のヴィーガンの中で有名になったきっかけでもあります。

 

Youtubeのアカウント名が、「Earthling Ed」となっています。

Earthling(アースリング)なっていますね。

 

古い映画で「Earthlings(アースリングス)」というものがあります。

世界の動物搾取の実態を明かしたドキュメンタリー映画です。

 

エドがこのEarthlingsにちなんで名前をつけているかは分かりませんが紹介しておきます。

肉・卵・乳製品を食べる方、サーカスや動物園水族館に行かれる方は、しっかりご覧ください。

 

ペット

 

 

 

 

魚介

 

衣類

 

ロデオ、狩猟、釣り

 

サーカス、動物園

 

闘牛

 

動物実験

 

 

10年以上前に撮られた映像ですが、豊かになった現在も全く変わっていません。

 

人間は一体いつになったら道徳的になるのか?

やはり多くの人は倫理よりも欲なのでしょうか。

 

 

エドの動画を翻訳したものを以下にまとめておきます。

 

 

 

 

 

 

 

***************引用***************

 

「子供にイモ虫を踏むつけるべきではないと教えるのは、
子供にもそのイモ虫にとっても有益なことである。」
− ブラッドリー・ミラー

 

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