大野眞嗣先生からうかがったことを、代わって僕、樋口一朗から皆さまに共有させていただきます。
大野先生が演奏行為に意図している根本の部分。まず巨大なエネルギーをグッと集めてくること、そしてゾーンに入ることであり、そこには非常に強い波動が発生し、そして非常に巨大なものを創造することにつながり、例えば永遠の命を作品に存在させることでもある。実際の演奏には終わりがあるが、まるで永遠に続くかのように、作品を問わず普遍的な要素を大切にすることが演奏の根本。この曲はこうあるべきというような次元で見ているのではなく、演奏行為を広く見渡したときの根本の哲学と言えること。
地球が存在する限り、いい作品は残り続ける。普遍性があり、それは言い換えるならば永遠の命。それがこの一年で先生が見つめて来られたこと。繰り返すが、そこには非常に強いエネルギーが存在する。例えば休符一つであっても同様で、そういう壮大なものをテーマにイメージして演奏している。とはいえ、作曲家特有の音楽言語があり、それは先生のなかでおさえたうえでの真の自由ともいえる、果てしなく終わりのない世界をイメージしている。チェリビダッケも述べているが、作品の内容をできるかぎり捉えていくと必然的にテンポが遅くなければ表現しきることはできないという感覚に至った。
それは果てしなく広大な宇宙、さらに言えばすべての次元を越えて、俯瞰して捉えている感覚。例えるなら、この世でもないしあの世でもない、この世でもあるしあの世でもある。そのなかで作品が持つ言語や特有の要素がたくさん存在するから、いかに細分化して引き出せるかというところにも命を懸けている。演奏哲学を持っているから成せることなのだと思う。
このトリルはどう弾くべきか、この音はどういうタッチで弾くべきか、音の出し方はどうかなどということも大切ではあるが、上述したことに比べれば枝葉の部分であり、そういう演奏哲学にはつながらない。本来ならば人生哲学とリンクしていることでその次元をイメージしている感覚を持った人間から見れば、どう教えるべきかとか、コンクールがどうあるべきかなどは、ちっぽけなことにすぎない。コンクールに限らず、演奏哲学を持たない演奏家であふれているのは残念だと思う。
芸術をやるというのはそういうことなんです。
人生をかけてそういうものを見つけることなんです。
先生から見ると多くの人が現実世界の狭いところで演奏しているように感じる。人生のほとんどのエネルギーを音楽に捧げなければそういう領域には達しないし、過去50年間を振り返れば音楽に捧げてきたといえる。
また本来人間は誰でもいつかは死を迎えるが、できれば死にたくないと思っているように思う。だからこそ、自分が60歳を目前に、自分の死をリアルに見つめ始めたこともあり、永遠の命というものに対する憧れが根底にあるように感じる。それが作品には存在している。
そういう自分のなかにある永遠の命への憧れを演奏のなかに取り入れ演奏に反映したい。
もしかしたら国を超えて存在する魂そのものを音楽の世界に投影したいのかもしれない。
もちろんミスタッチはないに越したことはないと先生も思っているし、誰でも深層心理の中にミスタッチをしたくないという思いはあって当然なのだが、ミスタッチに対する恐れに囚われているがために、音楽の内容を表現しきれなかったとしたら、それに関しては違和感を感じる。ミスタッチをなくすことを目的にして演奏の哲学を見失っては元も子もないということであり、その結果ミスタッチがあったとしても理想の音楽を表現できていれば、それはそれで肯定できる。
自分なりの演奏哲学を見つける手段として例えば大野先生の場合、この一年間およそ40回ほどの本番こなすことによってその境地に至ったことや、自分が芸術をやっていて、芸術家の一人であるという自負を持ち、日常の言葉の選び方や所作のすべてにいたるまでが大切で影響すると思うようになり、そこには高い理想、志が必要であり、ピアノの前に座ったときだけ芸術家になれるわけではない。そういうことも演奏哲学を見つけることに深く関係していると思う。
生徒の皆さんにそのような演奏哲学を見つけて、それをテーマに自分なりの演奏をしてほしい。もちろん異なる哲学があって良いし、またそれを強く願っている。