ファッとした柔らかい響きに表情がある。昨日、レッスンで生徒、岡部那由多がシューベルトのレリーク・ソナタを弾くのを聴いていて思った。そもそも、中学生にこの曲を弾かせること自体、一般的ではないのだが。しかし、彼にとっては、この未完の、言ってしまえば地味な作品をどこまで理解し、先に述べた表情をを持って弾けることが、今、とても大切なことと思ったゆえの選曲なのだ。彼にとって、ある程度以上の技巧は既に持っているので、そのような技巧的な勉強よりも、もっともっと大切なことを学んでほしいと思ったのだ。幸い、彼自身も、その意図を汲み取り、積極的に取り組んでくれている。まあ、中学生が弾くような曲ではないなどと思う方もいると思うが、那由多も私も、一般的な価値観から程遠い感覚なのかもしれない。そもそも、世界中を飛び回るピアニストでさえも、滅多に取り上げない曲であり、日本の音楽大学の学生など、この曲を弾くどころか、存在さえも知らないであろう。個人的に、この件については、由々しきことと思っている。教師でさえも聴いたことがないのが、日本の現状で、なんとも、空いた口が塞がらないとしか言えない。
それはさておき、そんな彼が弾く演奏であっても、たまに、先に述べたフアッとした響きのない一般的なタッチで弾いてしまうフレーズがあったりする。途端に、表情が無くなってしまうのだ。表情がなくなる瞬間、彼の感じていることが、聴いている私にはわからなくなる。で、そのあと、またフアッとした響きが戻ってきた時に、表情が出てきて、彼の感じていることがわかるのだ。それほど、響きと表情は密接に結びついていると思う。
世界中を見渡しても、この響きが一つ一つの音に宿っていない演奏は多いと感じる。すなわち、表情が無い演奏。だから、仮に感じていることがあっても、表情が存在しないがために、メッセージ性は弱くなり、結局のところ、何を言いたいのかわからない、もしくは、わかりにくい演奏になってしまう。そんな演奏に接した時に、上手いか下手か、もしくは、正しいかどうか、という次元でしか、演奏を受け取れない。すなわち、そこに感動など生まれるわけがない。本当に感動する演奏自体が少ないわけで、その次元の演奏には、先に述べた表情が存在し、聴いている者が、共感できる、理解できる音楽になっていなくてはならないと思う。