私も年齢が年齢ゆえに、若い時とは違い、世の中が不条理であることに対して寛容になって来た。日々過ごしていれば、様々な不愉快なことが生じるが、それを認め、許し、受け入れるということがいかに大切であり、その方が自身も気持ちが軽くなり、生きる術を知ったように感じる。それは歳をとらなければ、なかなかその心境にはなれないのかもしれない。そして、何事にも捉われないシンプルな姿勢と言えるのかもしれない。若い時からその傾向はあったが、本当に大切にしたいことがより整理され、シンプルになってきたということ。考えなくてもいいことは考えない、考えなくてはいけないことだけを考える、そして、考えても答えが出ないことの方が実は多く、そういうことは感じることを大切にし、真理は感覚の中にあると思うようになった。そこに至るまでは、ひたすら考えて答えを出す努力をしたものだが、そこに答えはない場合が多いと気がついた。もちろん、たくさん考えて、人生の基礎、土台作りを経た上でなくてはならないが、私も私を解放してもいいだろうと思うようになった。そうしたら、聴こえてくる音楽に変化が生じ、それが自身の演奏やレッスン内容が良い方向に変化した。つくづく思うのは、楽譜の見え方が変わったことが、とりわけ、私としては嬉しい。見えてなかったことが見えて来た。他者の演奏を聴いた時に、理屈抜きで、その演奏者と核を共有できる喜びを感じたならば、それは本当に嬉しいと感じる。例えば、憧れていた演奏家とやっと繋がりを持つことができたような喜びだ。それは私の中ではとても重大であり、達成感を感じることができる。不思議なことに、そのおかげで、どんな音でも、テクニックでも、つまり、お気づきの方もいるだろうが、恐れずに述べれば私はロシアピアニズムに執着することはないと言えるようになった。良いと思うものは良いわけで、それがロシアピアニズムでなければならないという感覚から自分自身で解放することができた。とは言え、ロシアピアニズムには美点もあり、弱点もあると思うが、ロシア的なタッチで演奏すること、そして、ロシア的なタッチを知りたくて習いに来る生徒たちには、引き続きロシア的なタッチを教えることに変わりはない。以前から述べているが、広い意味で特にフランスやドイツ、オーストリアを軸としたヨーロッパのハーモニーを軸とする論理的思考で楽譜を読むこと、そしてその感覚で音楽を作り上げる、その手段として、ロシア的なタッチでロシア的な響きは共鳴感にあると思うようになったわけで、それを感じるようになったのはベーゼンドルファーを弾くようになったおかげであり、決してスタインウェイが劣る楽器であるとは述べないし、思いもしていないし、スタインウェイ、ベーゼンドルファーには、それぞれの楽器ならではの異なる長所があり、それは一つの作品を弾く時に、それぞれの長所を生かせば、やはり異なる世界観を作ることができることも知った。そして、日本人特有のDNAに存在するであろう、その美点の一つである繊細な感覚。それら全てを合致させた演奏が私の理想とする演奏であると感じるようになった。しつこいようだが、ロシアピアニズムには、特に響き、共鳴感、合理的な身体に負担の少ない奏法であるとは思うし、でも、それはいわゆる絵の具のパレットであって、描く絵はヨーロッパ的な確固たる構築感がある建造物のような音楽であり、そこには、日本画のような、微細な感覚が同時に存在し、それは日本人だからわかる、例えば、侘び寂びという言葉がイメージできるような何かも存在し、できることなら、その全てが霊的であり、宇宙であるような演奏を目指したいと思う。ロシアピアニズムに関する著書を書いたのは事実だが、それが100%ではなく、私にとって私の思う理想の演奏の一部に過ぎないということを述べたかった。人は愚かにも自身の信じる物事以外、認めなかったり、排除する傾向があると感じることはよくあるが、そのようなレベルの域で生きていたいとは思わない。そうではなく、真理はそのレベルを超越した領域にある。