最近、いや多分もう少し以前からだと思う。おそらく腹筋運動のし過ぎとマッサージを受けた事がきっかけで慢性の腰痛持ちになって一年。その影響から、どうしてもレッスンをアシスタントにお願いする比率が増えた。で、気がついてみると、自身の中で、きちんとするという意識が希薄になった。当初は何となく罪悪感があったが、これが時間の経過と共に許せるようになり、何とも心地よくなって来たのだ。何事もきちんとしなければ気が済まない性分で今まで生きて来たが、何から何までそう思う必要もないと気がついた。例えば、今日中にやらなければならないと、それは自分が勝手に決めているに過ぎないわけで、それを明日にしたからと言って何も問題が無ければ、明日やればいい。演奏に於いても、きちんと弾くことを目標にしていたり、無意識のうちに強迫観念に囚われていたとすれば、その演奏には自由がないかも知れない。だとすれば、それはきちんとは弾いているが、それ以上でも以下でもなく、つまりはろくでもない演奏になってしまう可能性がある。私の場合、自ら望んで身体の自由が減ってしまったわけではなく、結果として、そうなったのだから、受け入れるしかない。それならば、その範疇で、どう生きるのかの最善を探すしかない。なにか失うものがあったら、得るものがあると悟った。つまり、全てのレッスンに関わらなくても、生徒の段階にもよるがアシスタントに任せてもいいし、その間、遊んでいるわけではなく、さまざまなことを考え、感じることをしている。それが、実は今の段階、私の立っているステージでは、とても必要不可欠であると思うようになった。それがあるから、次へ進めるのだ。そして、それが自身の哲学につながり、芸術につながる。そして、レッスンにつながるのだ。今から思うと、きちんと生きていた時は頭が固かったと思う。それに比べて、今は音楽の捉え方も柔軟になれた。生徒たちに対しても、もっと広い心で受け止められるようになった。だから、きちんとしない、イコールだらしがないとは思わなくなった。いやいや、むしろその方が絶対いいと今なら自信を持って言えるのだ。1日が24時間ではなく、48時間あるような感覚というか、東京にいるのに、南の島の浜辺にいるような感覚だ。その感覚は演奏にも良い意味で反映されているのではと思えるようになった。スローライフという言葉のように、皆さんも気持ち次第で価値観が変わり、演奏だとしたら、その演奏にも何か良い影響があると察する。どうも、日本人の悪いところ、島国根性ではなく、もっともっと大陸的に広く寛容な気持ちで音楽はもちろん、さまざまな物事を捉えてみたら、世の中が不条理な現実も受け入れられ、つまりは価値観も変化し、それが演奏につながると、今、当事者になってしまったから実感するのだ。予定調和のように行かないのが、人生であり、だからおもしろいし、何が起きても、それを受け入れ、それを肯定的に捉える発想の転換が必要なのだ。災い転じて、福来るというではないか。人生など限られているということを、誰しもわかっているが、本当には受け止められないのが通常だが、だからこそ、いつかはこの世から去ると本当に思うべき。それにより、本気で死とは何かを考えざるを得なくなり、そして、どう生きるかを見つけることができるのかも知れない。多分、多くの作曲家達も同様に考え、死をリアルに感じながら、葛藤、苦悩の末に作品を書いていたであろう。その作曲家に歩み寄り、寄り添って、作品が見えてくるだろう。