のだめカンタービレの中にあるセリフ「三度の飯より楽譜が好き」とあった。確かに昔の私はそうだったのを思い出す。楽譜をいつも眺めていると頭の中に音が鳴り始め夢中になって、次のページはどうなるのだろう?と期待しながらめくったものだ。視覚的にも、作品により、まるで絵画のような、図形のようにも見え、実際に音に出した時にどんな音楽になるのだろう?とイメージした。自分が弾く作品はもちろん、まだ弾く予定もない楽譜も買ってもらって、それが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。それだけではない、例えば、ショパンのエチュードだけをとっても、パデレフスキ版、コルトー版、ヘンレ版、という具合に可能な限り何種類も見比べ、いろいろな違いに興味津々だった。バッハの平均律もヘンレ、ムゲリーニ、ブゾーニと揃えて見比べ、さすがにバルトーク版までは手が届かなかったが、ベートーヴェンのソナタもヘンレ以外にシュナーベル版も当時は流行っていた。大体、思い出したが、ヘンレ版のベートーヴェンのソナタの分厚い楽譜、使っているうちにぼろぼろになってしまい、何冊も買わねばならなかった。ついでだから、ヘンレ版のベートーヴェンのソナタ、今はピースで売られて便利になったが、全部の作品を持って、その違いを見るからわかることもたくさんあるのだ。ピースなど論外だ。話は横道に逸れたが、楽譜を見ることが好きになるのが自然の成り行きでなくてはならない。弾く予定のない楽譜も含め、ありとあらゆるクラシック音楽の作品の楽譜を持ちたいという衝動がなくてはならないと思う。それこそが音楽が本当に好きな証である。ましてや、昨今、ネット上でコピー出来るのが、確かに便利だが、そのコピーで済ませる感覚が理解出来ない。ヨーロッパで作られている原本を持って初めて何かをイメージすることもできるのだ。ヨーロッパの空気を一緒に運んできているとイメージもできる。コピーしか持っていないなど、作曲家に対して失礼だし。大体、昔の話で恐縮だが、コピーをレッスンに持っていくことは言語道断であり、自分の分はもちろん、先生の分も、つまり2冊同じ曲の楽譜を揃えたものだ。それが場合により、同じ出版社ではなく、パデレフスキとコルトーという具合に。シューマンだったら、ヘンレ版とブライトコプフ版、ペータース版というように買って見比べ、2冊レッスンに持っていった。それが当たり前の私の感覚であり、今時の生徒のほとんど、二台ピアノがあるにも関わらず、皆持ってこない者が多い。でも、何も言わなくても、2冊持ってくる生徒もいるのが現実であり、そういうところで差がつくなと教師は思うものである。せめてコピーでもいいから2冊用意するのが常識だ。とにかく楽譜を軽んじてはならない。楽譜の存在には大きな意味がある。昔、ミュンヘン国立音楽大学のクラウス・シルデ教授は楽譜を神聖な物と見なし、先生ご自身も楽譜に一切書き込むことをしないし、生徒にも許さなかったと聞いている。そして、楽譜は時代により次世代の編集者により研究され内容が更新されたりするので、場合によっては買い換えなければならないし、昨今では、ベーレンライター版やエキエル版など、昔はなかった楽譜もあり、もちろん、私も新たに買い揃えている。そこには従来にない新しい内容が書かれていて大変興味深い。まあ、くどくどと述べたが、楽譜をとにかく読むことに楽しみを見出せなければならないと思う。本当に芸術的な演奏をしたければ、その楽譜をたくさん読むプロセスがなくてはならない。そこには、演奏につながる新たな発見がたくさんある。私もいつも大学からの帰りの電車、新宿から座れたので1時間ほど、いつも楽譜を眺めながら帰っていた。時代が時代で男が音楽なんてと思う風潮もまだあり、電車の中で楽譜を見ていると、音大生だとバレてしまうので、恥ずかしくもあったが、今となっては懐かしい思い出だ。ちなみにヘンレ版のベートーヴェンのソナタ、1巻と2巻にわかれて、それぞれが日本では、もちろん高いのだけれど、ザルツブルクにいた時も買い替えなくてはならず、その時に日本の3分の2ほどの値段だったような気がする。あと、最近も新たにブタペスト版を3冊購入したが、ぼったくり価格に思えてしまう。あんな厚さ程度で10000円以上するし、フランスのサラベールも昔は高かった記憶がある。そういう意味でも、楽譜はちょっとした財産でもある。楽譜についてまつわることをくどくどと述べさせてもらった。