私は常々思うのだが、自分が子供の頃から今に至るまで、自分の根幹にある何か不思議と言うか、あいまいというか、その何かをずっと変わらずに持ち続けている感覚がある。
それを上手く説明は出来ないし、何故なら、どんな言葉で表現しても出来ない。まあ、自分には語彙が乏しいからなのだろうが。
ここでは、それを何かという言葉を使うしかないのだが、その何かが、音楽をやっていく上で、私自身を支え、導き、その何かを持っているおかげで、何というか、誇りさえも内心持つことが出来るのだ。
その何かをイメージした時に、それは科学的に証明出来ないけれども、でも、とても大切にしたい何かであり、私が知る限り、それは芸術の分野に限られるが、芸術をする、つまりは私の場合、音楽をする上で絶対に欠いてはならない何かなのだ。恐れずに言えば、世間を見渡した時に、つまりは、世界中のピアニストの演奏を聴いた時に、私の言わんとする、何かが宿っている演奏は多くはないと感じてしまう。あくまでも私個人にとってであり、その何かが存在する演奏を聴く時、私は、そのピアニストとは根本的なところで意気投合し、共有できる感覚を覚える。まるで旧知の仲のようであり、そうでない演奏を聴いた時には、全く知りもしない赤の他人であり、その存在すらもなくなってしまうような感覚になる。知っている曲を弾いていて、それを聴いている私は、その曲を全く知らなかったと感じてしまう。それは、まるで全く知らない言葉で話されているような不思議な現象が生じるのだ。
私は、私自身が自分の内に大切にしてきた、その何かを今後も、根拠なく信じて、持ち続けていくのであろうし、それを共有してもらえるのは、おそらく、やはり私と同じ、その何かを感じている人しかいないのではないかと思ってしまう。とても不思議な話なのだが、皆に理解してもらえない前提で述べてみた。昨今では、何でも科学や物理で証明しようと、特にピアノの技術的な分野において研究が盛んなようだが、私には多分、それは不可能な解明出来ない領域であり、もしかしたら開けてはいけないパンドラの箱であり、敢えて解明するべきことではないようにも思う。それを解明できたら、素晴らしい演奏になるとは到底思えない。そもそも素晴らしい演奏の定義そのものが、解明できることでない。何でもかんでも徹底的に表に表そうと思う考え方、その方向性そのものに違和感を感じる。芸術というものは、人の数だけ、それぞれに意味合いが異なっていいと思うし、その価値はそれぞれにあるとは思う。そうすると、等しく横に並んでいて、要するに、趣向の相違に過ぎないのかもしれない。音楽をすればするほど、何となく、そんな、ある意味での混乱というか、スパイラルにはまってしまうような感が否めない。答えは、そもそもないのかもしれない。答えのない、その何かを根幹に持ち続けて、答えを見つけるのではない意識で音楽を捉えるのが、じつは答えなのかもしれないと思ってみたりする。