音楽を縦に捉えて耳を使ったり演奏するようになると、言葉がふさわしいかどうかはわからないが、拾うべき音と捨てるべき音の存在に気づくようになる。例えば、日本で粒を揃える概念が強いが、それは縦にも捉えていないし、拾ってもいないし、捨ててもいない。簡単に言ってしまえば、実は何もしていないのだ。プロにもかかわらず、好き勝手に弾いている演奏や、横にしか捉えていないと思わせる演奏は多い。で、粒をそろえる演奏が正しいと思うならば、人間では無くてロボットが弾けばいい。もちろん、好きに弾きたければ、そして、人様からお金を頂かなければだが。
プロとは、演奏したり、教えることによって、お金をいただく。だとしたら、好きに弾いているわけにはいかない。
拾う音。これはハーモニーの中でスパイス的役割を担う。この拾う音と捨てる音があるということに気づいたならば、そこには、いわゆるテンポルバートが生じることになる。それも自然な宇宙の法則に則ったテンポルバート。結果として、スケールやパッセージを弾いたとしても、実は粒は揃っていないのだが、粒がそろったように聴こえるようになる。それでは違う例として思いつくのは、例えば、アルフレッド・コルトーの弾くくどいほどのテンポルバートは、ただ好き勝手に弾いてるのでは無く、プロとして楽譜の音符を捉えているのだ。あれはある意味で正しいことをしている。信じられないかも知れないが。


その人が作品の音をどう捉え、そして聴こえているかは、それなりにわかっている人が聴くと、ほとんどのことがわかってしまうものだ。信じられないかも知れないが、プロでも出鱈目な演奏をしている人はいるものだ。結局のところ、耳をどう使っているか、まず倍音を聴いているか、そして、楽譜をどれだけ深く読んでいるか、音楽を横にしか捉えいないか、それとも縦にも捉えているのかということなのだが。