クラシック音楽の幅は広い。その中でロマン主義の作曲家はとても人気があり、もしかすると、中心に存在しているとも言える。でも、よくよく考えると、ロマン主義の時代の作曲家、その時代は、長いクラシック音楽の歴史の中の一部であるということ。あくまでも一部なのである。見方によっては、特別な、特殊な世界であると思う。例えば、ショパンだが、その才能は非常に特殊であり、天才であることは私も意を唱えない。が、しかし、ショパンも含めて、ロマン主義の作品はメロディーが、魅力的で、聴いているものをメロディーで魅惑する作品が多い。これでは、クラシック音楽にも関わらず、ポピュラー音楽になってしまう危険性をはらんでいる。音楽は私はハーモニー、いわゆる縦に捉えるべきであると思う。ハーモニーで捉えると、ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスもブルックナーもマーラーもシェーンベルクも理解できる。例えばラフマニノフ。ラフマニノフ自身の演奏も聴くことができるが、甘さを排除した、何ともシンプルに弾いている。どんなに甘いメロディーが出てきても、ロマン主義のようには歌い上げない。これは、彼が音楽を横では無く縦に、ハーモニーで捉えていると推測できる。だからクラシック音楽なのであって、ポピュラー音楽ではないと思う。敢えて、敢えて、私では無く、あの高名な吉田秀和氏がショパンをどちらかと言うと否定的に著書の中でののべていたわけで、ショパンが特別に好きな方からすれば違和感があるだろう。吉田秀和氏にとどまらず、私の師事していたドイツ人ピアニストのアルフォンス・コンタルスキー先生のレッスンにショパンを持っていくと非常に嫌がられた。ショパンは酔っぱらいの音楽だとおしゃっていた。ドイツ・オーストリア作品が、当時からウィーンを中心に圧倒的で膨大な量、作曲されたのは歴史的事実であり、クラシック音楽の中でのショパンを代表としたロマン主義の存在は、ごく一部に過ぎないという事実を知るべきである。偉大な指揮者である、カラヤンやクライバーなどがショパンのピアノコンチェルトを録音していないのもそれを物語っている。確かにショパン国際ピアノコンクールはピアニストにとっては登竜門なのもわかるが、これはある意味で限られた世界であり、非常に特殊であり、ごく一部でしかない。そう思っていない、その事実を知らないのは、今どき東洋人に多いだろう。私の昔も含めて、ショパン国際ピアノコンクールに出る人が、幅広く音楽を、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスやマーラーやシェーンベルク、そしてウィーンフィルやベルリンフィルを普段から当たり前のように聴いたりしているだろうかと思う。そもそもコンクールにドイツ圏の出場者がそんなにいるのか?これは、明らかにショパンに対して思いの差が事実としてあるからではないか。私は誤解してほしくないがショパンが嫌いなわけではない。ただ、全世界のクラシック音楽の世界、広く、長く捉えた時に、ショパンは特殊な作曲家と言うべきで、絶対的な存在ではない。現にショパンを全く弾かないピアニストというものもたくさん存在しているのだ。