ピアノ弾きにとって調律師は必要な大切な存在。だが、誰でもいいというわけにはいかないのも事実。皆、お気に入りの調律師さんがいるわけだが、これは本当に不思議なことだが、一般的にピアノ弾きと調律師の立ち位置が異なるからか、両者が乖離してしまっているように感じる。やはり歩み寄りが必要。モーツァルテウム音楽院ではピアノ科の学生は必須で調律の授業を受けなければならない。調律師なのに、ピアノ音楽さえも興味が無く聴かない人は多いと聞く。このことが、現状の調律に少なからず影響を及ぼしているのではなかろうか?よく整った調律を目指すあまりに、私から言わせれば音楽的と感じない調律が多い。そんな状態の楽器を触って思うのは、よそよそしさ。お高く気取ったマダムと会話している感覚のよそよそしさだ。それは非常に表面的な美の世界であり、心の琴線には決して触れてこない。そんな例が多いと感じているピアノ弾きは絶対多いに違いない。