ベーゼンドルファーについてのインタビューで話そうと思ったことの元原稿。
ベーゼンドルファーについて
そもそもスタインウェイでは、この先何を思い考え生きていくべきなのか?がわからなくなってきていた。
結果、ベーゼンドルファーが私に、これから生きる道標を示してくれた。
それは、ひとこでいうと繊細さ。
繊細な演奏。繊細さがわかる人間。
思うに繊細な人になりたいと思って繊細さだけを見つめていてもなれない。繊細な人間には同時に心の広さ、深さ、優しさ、つまりは寛容さを持ち合わせている。そんな人って魅力がある。そんな人にこれからの人生、目標としてなりたいと思う。
大体、普段から内田光子さんしかCDは聴かないほど、日本人の繊細な演奏に惹かれる。ヨーロッパ人の演奏はどうしても大味に感じてしまう。
日本人には日本人にしか出来ない演奏を目指すべきだと思う。
もともと、日本語には、美しい以上の美しさを称して麗しいという言葉があった。色も多種多様な表現で例えば、「もえぎいろ」とか、そういう微妙な表現があった。ベーゼンドルファーには、その繊細さ、微妙な表現が存在する。それはウィーンの伝統が生んだ。そもそもウィーンは西ヨーロッパでなく中央ヨーロッパ。多種多様な人種が入り混ざり、オーストリア・ハンガリー帝国であり、そのような地理的、歴史的背景から、独自の文化伝統が生まれた。同じドイツ語圏でもドイツの料理は大味でオーストリアの料理は繊細な味わいもあり、クリムトやシーレを生んだ独自の輝ける伝統がある。その伝統を知っているベーゼンドルファーの設計者、作り手である職人の魂、意図を汲んで出来上がった楽器であり、その人達の気概を考えてみるべきだし、考えてみたら、ベーゼンドルファーはどんな楽器か?どう扱うべきかがわかる。
結果、スタインウェイとは対照的なコンセプトの下、楽器は出来上がったと思う。だから、スタインウェイで行き方が見えなくなってしまっていた私にとってベーゼンドルファーはあかりを灯してくれた。魅力的な人間になるために、そんな生き方を示してくれた。日本には、○○道と言って、茶道、華道、柔道のように、それぞれの道があり、やることは違っても、それぞれの根底には、どう生きるか?どんな人間になるかがあると思う。ここでは、そんなピアノ道とも言うべき、道があるように思う。つまり人生哲学を学ぶことになる。日本人には日本人にしか出来ないピアノ道とも言うべき生き方が大切。それをベーゼンドルファーから教えてもらった。
ドイツ在住の日本人書家、村上綾氏とは実際に面識はないが、彼女の発信している日々の事柄から、先に挙げた日本人ならではの感受性、思想を感じさせて頂いている。そこには外にいるからならではの、外から見た日本や外にいるから実感できるご自身の日本人としての凛とした品格を感じることができる。そんな村上氏のような品格がベーゼンドルファーVCシリーズに何故か?存在する。ベーゼンドルファーという楽器はもはや楽器を超えて、生きた品格ある人間として存在している。わたしはそんなベーゼンドルファーのような人間になりたいし、なるべく精進して残りの人生を歩みたい。
ベーゼンドルファーを弾くようになり変化したことの一つは、演奏に於いてのゆとりの大切さがある。
自分の精神宇宙を100パーセント出すのではなく、10パーセント程度で言いたいことを言い尽くす。
そんな美的意識に目覚めることができた。
もちろん100パーセントの演奏にももちろん魅力はあるが、10パーセントのゆとりの演奏にも、異なる魅力、美点があると思う。
そんな新しい意識をベーゼンドルファーによって思わされた。
そこには、大人にしかできない、美的見地が存在する。
そもそも、クラシック音楽を演奏するということは、過去に作られた作品を辿る、過去への旅であると個人的には思っている。国際コンクールなどの演奏の大半は残念ながら、その演奏の本質は未来に意識が向けられているように感じる。だからとても上手いのだけれども、違和感を感じる。そもそも1秒前はすでに過去であり、ましてや、私が言うまでもなく殆どの作品は過去の産物である。だから、本質的に演奏は未来ではなく過去に想いを馳せるべき。もし、新しいものやことの方が良いという方程式で捉えてしまうとすれば、クラシック音楽そのものの存在意義が失われてしまう。古いものや事の方が優れているのも現実であり、昔、鳴っていたウイーンの教会の鐘の音も現在の鐘の音も同じであり、その過去から鳴っている鐘の音がベーゼンドルファーには含まれていると思う。ベーゼンドルファーを弾いていると、無意識の中、自分が過去を思いを巡らせていることを発見できる。それはとても儚い。そしてロマンである。