むかしむかしの学生の頃を思い出すと、門下の弾き合いがホールでたまにあった。とても苦い思い出だ。
一応、私は私で私なりのプライドがあったから、それは今から思うと、ただの強がりだったのかもしれないが
でも、それがなくては自分の心の居場所がないほどクラスのレベルは高かったように思う。
とにかく、あの時代の日本は、というかあの時代の弾ける人たち、いわゆる、器用にそつなく難曲をいとも軽々と弾く人たちが大勢いて
私はそんな演奏に嫉妬してみたり、いやいや、自分のほうが芸術的だなんて無理やり思ってみたり、
とにかく赤くなったり青くなったりというべきか、一喜一憂していた自分がとにかく苦しかった。
私にはない器用さをまざまざと見せつけられた。
器用さだけで優越をつけてしまう、まるで時間と正確さを競うスポーツのような演奏だったように思う。
でも、考えてみれば何のとりえもない、上から見ても下から見ても横から見てもセールスポイントのない演奏というものがあるわけで
それを思えば、器用に弾けるということは大きなセールスポイントだった。まるで今日の目玉商品とでもいおうか。
それからうん十年。四半世紀以上がたったが、思い返してみると、あの器用だった人たちは今どうしているのだろう?と思うことがたまにだけれどある。確かに彼ら、彼女らは器用だったけれど、今から思いだすと音色の表現というものがなかった。
器用という意味では圧倒されたけど、正直、その演奏に魅力を感じたか?と問われれば、残念ながらなかった。
負け惜しみでもなんでもなく。
今、若い人たちの演奏を聴くと、立場は変わっても同じことを思う。
器用だというだけで演奏が素晴らしいわけではないのだ。
その昔の、あの人たちはみなどうしているのだろう?
あれだけ弾けたのに、今は名前も聞かない人が大勢いる。