前回の続きのようなものです。
私は専門家になることだけが音楽をする価値があるとはこれっぽっちも思っておりません。まずこれは申し上げさせていただきます。
例えば、ピアノ教師も小さな子供たちを教える教師、その中にはあくまでも趣味で習っている子供たちやコンクールを目指す子供たちとそれぞれいるわけです。そんな子供を教える教師。そして、あとは年齢に関係なく趣味でピアノを弾く方を教える教師。趣味なんだけれどコンクールを目指す大人を教える教師。専門家、いわゆる音大生などを教える教師。とまぁ、ピアノ教師と言っても様々な存在が思いつくだけでも存在します。大抵の教師は音大を出ているわけですが、中にはピアニストになりたいと思って頑張っていた方や憧れの大学を目指していたけれどうまくなれなくて挫折した方や志望校を変えざるを得なかった方がいると思います。まぁ、どんな教師であっても音楽家としての存在価値は重要に等しく考えておりますが、残念ながらピラミッドのごとく音大の先生が頂点に君臨し、それ以外の先生方が存在するといった状況にあります。しつこいようですが、どの先生も本来ひとしく存在するべきでありピラミッドが出来上がっていることに疑問を感じます。なぜならば、従来の弾き方を教えられ、中にはどんなに努力しても努力しても弾けるようにならなかった方もいらっしゃるはずで、それは、その方の才能ではなくただ単に従来の弾き方とその方の持って生まれた手の構造があっていなかっただけのことです。才能の問題ではなく、もって生まれた手の構造が違うだけでピラミッドが出来上がっていると感じます。これは音楽の世界に限ったことではなく、多くの方が感じていらっしゃると思いますが、一般に「街の先生」と呼ばれるどこにも所属していない教師を肩書のある偉い先生は見下している傾向があると思います。習う側の生徒や生徒の親御さんも同様です。
これ、なんかおかしいと思うのです。
たまたま、もって生まれた手の構造と従来の奏法の相性がいい人だけが上に存在し、そうじゃない人がどんなに良い感性を持っていても弾けないがゆえに下に存在せざるを得ない。その人の人間としての器や音楽的才能に関係なくです。
私は、この現状を疑問に思います。まるで上に存在する教師のほうが才能があると思い思われていることにです。これは才能の違いではなく、しつこいようですがただ単に手の構造の違いだと思っております。そしてそこには従来の奏法が大きくかかわっております。
いい教師とは、専門家対象だろうが趣味の方対象だろうが、そんなことには関係なく、どんな手の構造を持っている人でも弾けるようにすることができるスキルをもっている教師です。コンクールに入賞させる教師ではなく。ピアノ教師の多くは音大を出でいる方が多いですね。医者も医大出て国家試験を通れば誰でも医者になれます。どんな医者でも同じ見解で同じ薬を処方するとは限りません。大学病院の教授が必ずしもいい医者とは限りません。ピアノ教師も同じです。人間性も重要ですし。なんだか似ていませんか?
ピアノ教師もテクニックだけにとどまらず、いいスキルと人生哲学をしっかりと持った教師がいい教師だと思います。そういう教師が多く存在するようになってこそ、日本のピアノ演奏は向上すると思います。今のままでは発展にはつながらないでしょう。
野球のイチローのごとく、本当に実力があって、広く深く哲学を持っているピアノ教師やピアニストが生まれてほしいと切に願います。