高校時代と言えば、なんと言っても弁当にあります。色々楽しいことはあったけど、やっぱり毎日の弁当かな。特に際立っているのは、やっぱり海苔弁の醤油がしみた茶色いご飯、醤油がしみた海苔、そして母の作る海苔弁はあいだに程よく甘ーい炒り卵とおかかが挟まっていましたね。で上には梅干し。ちなみに今流行りのハチミツ漬けの甘ーい梅干しではありません。あれは梅干しとは言えません!で海苔と醤油と甘ーい炒り卵とおかかと酸っぱい酸っぱい!梅干しの組み合わせがちょっと前衛的なハーモニーでしたね。一見相反する同士が実は微妙な加減で魅力的に組み合わさっているというか、その日によって醤油の加減や卵の甘さの加減が違いますからハーモニーが違っちゃうわけですね。それが何ともいい味になる。たとえ辛すぎても甘すぎても、それは和声学的には禁則なんだけどもいい味が出る。そしてそこには一度たりとも同じあんばいにはならない絶妙な即興性が存在している。おかずが何だろうと、それに左右されない確固たる主張がありました。なぜかコンビニの海苔弁はその主張がない。なぜなら、いつも同じ味だから普通の和音なんです。三和音と言ってもいいくらい当たり前過ぎますね。
で、母の作る「海苔弁プラス炒り卵」なんですが、やっぱり気のようなものが入っている。それは子供に対する愛情だったり、めんどくさいなーという気だったり、時には怒りの気も入っていたと思います。なんせ、母親ですからね。どこの家の弁当にも、それぞれ作った人の気が入ってると思います。その気が味に反映されているのですね。
一つの作品を弾く時に、ハーモニーによって自分の気が入る好きなハーモニーとそれほどでもないハーモニーとかありませんか?ありますよね?それも無意識のうちにです。人ってなんに対してても気をおくりますから、どうでもいい時には、どうでもいい気をおくると思います。だから演奏は面白いのかもしれない。例えば、一晩のリサイタルで前座的役割の最初に弾かれる15分くらいの曲の場合、そこにたくさんの気を入れる演奏家は少ないと思います。前座なのですから。指鳴らしと言ってもいい。それはそれでいいんですよ。そういう役割ですから。まあ、作曲家や作品に対して、ちょっと失礼ではありますが。それで聴く側の私もそこに過度な期待はもともとありませんし。私も失礼ですね!で最後の曲にたくさんの気が入る。例えばリストのソナタのような長〜いなが〜い物語にもその時により気の入り方は違います。そんなもんですよね。で手作りの海苔弁だって同じことです。だからいいのですよ。しつこいようですがコンビニの海苔弁にはそれがない。そこですよ!気の問題だと思います。人は無意識のうちに気を感じとって食べるのです。そうこうしているうちに夜中になってしまいましたが、なんだか何か食べたくなってきてしまいましたね。