実のなる木が好きです。見ているだけでも魅力的でなんとも美味しそうです。子供の頃、実家の庭に柿の木があったのですが、たわわに実ったその姿はいかにも日本の冬を象徴するような風情を感じるし、とても美味そうだったので、初めて実がなった時にもぎ取ってかじってみました。ゲッ!!!その瞬間、予想に反してぺっと思わず口から吐き出しました。口の中でなんとも不快な風味が広がりました。で要するに甘柿ではなくて渋柿だったんです。他にもいかにも美味しそうに実っている大きな黄色い夏みかん。あれも酸っぱいだけで食べられたものではない。そういう実った姿は魅力的でも実際は食べられない実のなる木ってありますね。なんだか誘惑に駆られるのですがだまされる。詐欺師のようなものです。そんな実のなる木があることの意味がわからない。そんな木があっていいのですかね?と不思議に思ったことありませんか?あれは渋柿だから食べられないんだで済ましてしまっていいのか?と、なんだか納得できませんね。あんなに美味しそうなのに。なんだかものすごく残念な気持ちになるんです。
で、そんな食べられない実のなる木の存在している意味を真剣に考えてしまう自分が子供の頃からいます。神様はなぜにそのような実のなる木を作ったんですかね?うーん。
で、はっと思ったのです。甘い柿や甘いみかんだけが、柿やみかんではないということ。甘くなくても、美味しくなくても、とても食べられたものではなくても、やっぱり柿は柿、みかんはみかんなんですね。役に立たない、いらないと思われてしまうものであっても、存在していいのだということを悟りました。だから、本当は社会にどんな人が存在してもいいのですね。そう思うと、なんに対しても少しは寛容になれます。どんな演奏も本当はあってもいいのだという考えに結びつきます。仕事柄、あれをしてはいけないとかこうするべきだとついつい生徒に対して思いがちですが、もしかしたら、なんだかいけないことをしているのかもしれません。教えることは難しいと改めて思いますよ。食べられたものじゃない演奏なんだけど、簡単に切り捨ててしまってはいけないなどと思ったりします。どこかにいいところがあるのかもしれないと思ってみることが大切なんですね。ちなみに私は、猫の顔は一般的ではない、つぶれた不細工な顔の猫の方が好きです。俗に言う「ブサカワ」です。それと、昔シブがき隊というアイドルグループがいましたが、なぜシブがき隊なんでしょう?