ピアノを弾くということには人それぞれ違う目的があるだろう。ピアノが好きで弾く人。ショパンが好きで弾く人。人前で弾くのが好きだから弾く人。中には人生の大きな目的のために弾く人。それは上昇志向をもとに、有名になりたいとかお金持ちになりたいとか高い地位に就きたいという人も当然いると思う。正直、何でもいいと思う。人それぞれだから。
ちなみに私が思うにピアノを弾くということは究極的には「美」を求め、創造し、人々に喜びを与えることにつながることだと思う。なんだか近頃の若い人の演奏を聴いていると「美」を創造しているとか、「美」に執着があるとか、「美」を目的にしていない、それに気づいていないと思うことが多くある。ベートーヴェンならベートーヴェンの持つ「美」、ショパンならショパンの持つ「美」というものがあるし、ピアノが持っている「美」の世界、それは美しい音を追求するということもあると思う。汚い音を平気で鳴らしている人は論外として、本当に美しいピアノの響きを知らない人が多いと個人的には思う。残念ながら。それを知ってもらいたいと思うのだが、これがなかなか難しい。聴こえる人も聴こえない人もいるから。聴こえる耳の持ち主はいるようでいないと実感する。それはさておき、ピアノを弾くこと=「美」の創造ということに気が付くと、自分が何のために一生懸命ピアノといういばらの道を歩んでいるのかを理解することができるかもしれない。それを底流に置き芸術に、ピアノに携わることが大切に思う。
ベートーヴェンの1フレーズを弾いてみたときに、そこには弦楽器の弓使いから、ヴィブラートに至るまで、ベートーヴェンならではの「美」を追求して楽譜を読むことは大切だ。もちろん和声進行もおざなりにはできない。そうやってベートーヴェンと少し仲良くなれると思う。それを勘違いしてベートーヴェンがわかったと思ってはいけない。それを行うことが到達地点ではなく、それを踏まえたうえでの、もっともっと先の何かがベートーヴェンを弾くときには要求される。なんと高くそびえ立つ山に登ることになるだろうか!いくら上っても頂上には到達できない山だと思う。
また「美」とともに、広く考えると「生きる」ということにもつながるだろう。「生きる」ということは、生まれたと同時に「死」に向かって生きることでもあり。「生と死」も見つめなくてはならない大きなことの1つだと思う。「生と死」は」実は相反することではなく同じことだと、最近思うに至った。「死」を見つめた作曲家は当然多くいただろうし、実際にそれを感じることは多々ある。
「美」そして「生と死」というテーマと考えずして芸術、ピアノは追及できないと思うのが私の本音である。