わたしは日本に生まれた日本人。

その私がヨーロッパの文化を学び、演奏、教育ということをするにあたって心に引っかかるものがあった。

ヨーロッパ各地に存在するさまざまな伝統は日本で育った私からしてみると常識の範疇を超えた領域に感じられたと言っても過言ではなかろう。

そんな日本人がヨーロッパの音楽をやることの意味について長い間、自問自答が続いていた。

そんな折に、ヨーロッパにおいての国際コンクール経験の多さゆえのことであろう、1番弟子の川村文雄(桐朋学園大学専任講師)のひとことがあった。

「ヨーロッパ人の多くは日本人にヨーロッパ的な演奏など求めてはいないと思います。」

なるほどとは思ったが、私の中ではいささか懐疑的であった。

その後20年近くの時間が過ぎ去り、私の中であいまいにしてきたこの件についての答えがだんだんと見えてきた。

そして昨今確信を得るに至った。

ヨーロッパで活躍する内田光子さんや海老彰子先生の演奏を聴いたときに感じた正直なる驚き。

それは、なんと日本人的な繊細さに満ちた表現であろうかという驚きであり、私にとっては斬新に感じられた。

ヨーロッパ音楽と日本人的な感覚の見事なまでの融合である。

そこには繊細さというひとことでは片づけられない、日本人独特の「わび、さび」まで感じられるのだ。

なるほど、ここに答えがあったのだ。

西洋の作品を西洋人のようにアプローチしてもただの真似事にしかならず、ざれ言であると。

例えば、日本人女性の最も美しい姿と言えば、わたしは着物を着ている女性だと感じる。日本女性の多くは残念ながら着物などなかなか着る習慣も少なくなってしまったが、私がよく行く日本橋や銀座界隈では、和装の女性のみならず着流しの男性もしばしばみることができるのだ。その粋な姿に私の心は踊るのであり、ある種、魅了されるのである。

最近、やはり昭和の時代の映画やテレビドラマを多く見るが、あの時代には着物姿の人物が今とは比較にならないほど存在してくる。セリフにも今は失われてしまった美しい日本語が存在し、昭和の香りで満ちているのだ。

本来、日本人の中に当たり前にあったことであり感覚は失われつつある昨今であるが、私はこの状況を残念に思う。国籍不明の日本人であふれているように感じることがしばしばある。西洋的なものの考えが当たり前になってしまっている生徒や生徒の親を多く見かけてきたこともしばしばあり、私はそこに違和感を感じざるを得なかった。もしかしたら私の持つ感覚は、今では古いと言われてしまうのかもしれない。

 

そんなことから、やはり自分の中に存在する日本人的なものを再認識し、その要素を大切にピアノを弾いても良いのではないかという確信を得たのである。

日本人にしかできない演奏というものが確実にある。偉大な芸術作品には洋の東西を超えたアプローチに耐えうる崇高な魂、力が宿っている。

日本人でありながら、敢えてヨーロッパ音楽と対峙する意味をしみじみと思う。

日本人にしか弾けないモーツァルトやショパンがあってもよいし、そしてそれがヨーロッパで求められているということを実感する。

香水より白檀。

薔薇より牡丹。

 

 

 

 

 

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