先日、共感覚の話をした。
あれ以来、それを物差しに生徒たちの演奏を意図的に聴いている。
幸い、テクニックの進度にかかわらず、皆、程度の差こそあれ共感覚をもって弾いているようだ。
人によって共感覚はもともとあったり、だんだん見えてきたり。
色までわかる者もいれば、色とまではいかなくても、音の違いがわかるようだ。
思うに、共感覚の持ち主ではないと感じる演奏というものが存在するのだが、簡単に言ってしまえば、色とまではいかなくても、単純に表と裏がなく、すべての音が表になっているように感じる。
すべてが表の音ということは健全で健康的な音が並んでいるともいえる。
要するに病んでいないのだ。
私は昔からレコードを聴くたびに、そのような観点に重点を置いて聴いてきたように感じる。すべてが表の音の演奏家の演奏は、単純に言って聴いた後味が物足りない。
日本の教育現場で求められる演奏、特に入試やコンクールでなされている演奏の多くは、すべての音が表の音になっているように感じる。
興味深いことに、絵画の世界も同じように感じる。
生徒たちの演奏を聴きながら、レッスン室にかけてある何枚かの絵画を眺めていると、描かれているその物以上の何かのエネルギーを感じさせてくれないものもあれば、描かれている以上の何かを発し、しかも見るたびに違うエネルギーを感じさせてくれる変化に富んだ動きのある絵もある。
共感覚が存在するもしないも、両者とも存在してよいと思うし、好みの問題だと思う。
ただ、そのような観点、共感覚を物差しにして音楽や絵画を鑑賞するとおもしろいのだ。
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