「楽しい音楽なんてあるのか?」

これはシューベルトが言った言葉。

 

クラシック音楽というジャンルの作品を見渡した時に、そのほとんどは病んでいると感じる。それを作った作曲家たちもまたしかり。

 

それゆえ後世に残る偉大な作品が書かれたのだろうと感じる。病んでいない作品などは取るに足らないと言っては失礼だが、何百年という時空を超えて存在することはできず忘れ去られてしまうのだろうと思う。

 

そのような作品を弾く演奏家の役割というものがある。作曲家の意図をくみ取り、対峙しなければならない。

 

現代のピアノという楽器を考えたときに、その表現可能な領域は実に幅広い。

 

最近私は、ベルクのソナタやヴァーグナー=リストの「イゾルデの愛の死」を生徒が弾いていたが、つまるところ、その演奏において求めたものは官能性を帯びた病んだ世界であった。そういう意味では非常に直接的な表現で書かれている作品なので、私にとっても演奏者にとっても、また聴く者にとっても理解しやすい世界なのかもしれない。むしろ表面的にはみじんも感じさせない大バッハやモーツァルトのほうが、その演奏は困難であり、その中に潜む病んでいる部分を捉え、演奏で表現することは至難の業だと言わざるを得ない。

 

私は音そのものにそのような表現を求めるし、感じさせてほしいと生徒の演奏を聴いていても無意識化で思っているということに最近気が付いた。

 

これはロシアピアニズムのテクニックならではの表現可能な世界?それが言い過ぎならば、多く存在する領域と言ってもよいだろう。

 

日本で従来の弾き方である奏法で弾かれたクラシック作品を聴いていると、私には物足りなさを感じてしまうようになったのだ。それは健全で健康的な世界になってしまっているように感じてしまうのだ。日本の音大受験で求められていて評価される演奏はその典型かもしれない。ましてや国際コンクールの第1位を取る演奏の多くにも同じことを感じる。コンクールの負の部分と言ってもよいように思う。皆、ミスタッチをしないことを第一のターゲットにし、芸術と呼べる域など感じさせない非常に健康的な世界を目指している演奏になってしまっている。

 

どんなに奏者が心で感じ、思って弾いていている場合でも、音そのものが病んでいるべきだと思う。ホロヴィッツのように。

 
 
 
 
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村