私は「どう弾きたいのか?」わからない曲を弾くことはできない。

 

音大生たちや若い人たちの演奏を聴いていて、しばしば感じるのが「どう弾きたいのか?」わからないで弾いている演奏。それではなにもメッセージがない演奏だと思う。

 

その多くは「どう弾きたいのか?」よりも「どう弾くべきか?」ということを優先し、それを目的として満足している演奏のように感じる。しかも感じているというよりは考えて弾いている場合が多い。

 

それはまるで「こう弾けば正しいでしょう?」「文句ないでしょう?」と言われているような気分になる。

 

確かに作曲家が意図したことをくみ取ることは大切だ。

 

でもそれは演奏において終着点ではない。これに気が付いていない演奏者や教育者も案外多いと思う。アカデミックな教育現場ではおちいりやすいこと。

 

残念ながら、そのようなタイプの演奏を目的としてレッスンし、そのような生徒を評価し可愛がる教師は多いような気がする。

 

反対に、楽譜をきちんと読み切れずに、ただ「こう弾きたい!」という欲求が強いのみの演奏もある。やはりそれでもメッセージがあるにはあるが、専門的観点からは勉強が足りないということになる。きちんと楽譜を読んでいないと思われてしまう。

 

理想は「どう弾くべきか?」をきちんと土台として踏まえたうえで、で「こう弾きたい!」という能動的な意思がはっきりしている演奏。「どう弾きたいのか?」わかっている演奏。

 

それも、正しいことを自分の感覚の中の中心軸にきちんと置き、その感覚を知っているうえでの個性と、知らないで弾く個性は違う。知らないで弾いてしまうと、ただのでたらめとか好き勝手な演奏と捉えられてしまう。また、個性は「どう弾きたいのか?」がわかっていないと演奏には生まれてこないと思う。

 

没個性の演奏がコンクールでは評価されやすいのは残念なことだ。金太郎あめのような演奏が次から次へと続き、小澤征爾氏もおっしゃっていたが減点方式だからなのかもしれないが、それで優勝しても数年でいなくなってしまうのが現実だ。

 

これは昨日のレッスンで気が付いたこと。

 

私は生徒が持参してくる曲で、「どう弾くべきか?」をわかっているうえで、「どう弾きたいのか?」が自分でわかっている曲しか生徒の前では弾かない。

 

 

 

 

 

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