特に若い学生について思うことだが、そもそも、これは実際に弾く以前のことで、その作品を弾くに当たり、イメージするもの自体に問題がある生徒が多い。
音楽には様々な要素があり、そのようなことは当たり前であり、それ以上の何か大切な部分も含めて、青写真であるイメージを膨らませることがまず大事になるのではないか?
それは、微細にきめ細かく、かつ広がりをもってイメージすることが大切であり、私から言わせると、多くの生徒のイメージは大雑把である。貧困と言ってもよいだろう。
どんなにミスなく弾けたとしても、そこに提示された音楽は、ある一定以上のものでしかならない。
もっと言ってしまえば、その奏者の生き様そのものであり、思考や生きている、感じているステージそのもの。
芸術家は、最高のイメージをまず持たねばならない。
そのためには、音楽だけにとどまらず、様々な人生経験を踏み、感受性豊かな人間にならなくてはならないと思う。
そのために必然なのは何を置いても教養。偉大な芸術家に限らず、それぞれの分野で功績を残している人というのは教養豊かだと思う。
私は若い生徒たちにはレッスンにおいて、どう弾けばよいか?というテクニック上の速戦的なことも示唆するが、それよりも時間を割いているのが自分自身の様々な経験からくる学問としての教養ではなく、人として、芸術家として歩むべき道、考えを私自身模索しながらだが、それをその都度話すようにしている。
このブログの検索語句でも、残念ながら弾き方に関しての速戦的な言葉が多い。
ロシアピアニズムについて書いてきているが、弾き方だけ知ればよいというものではない。弾き方だけ知って理解したつもりになって、学校の試験でよい点数を取るために読まれたり、コンクールに入るために読んで、場合によってはレッスンを受けに来る。そんな考えの人のために書いているわけではない。そんな短絡的な目的で演奏され、レッスンを受けに来ても私にはバレバレだ。そのような人は、自分が知りたいことだけを目的にレッスンを受けにやってきて、私がそのような教師ではないと知るとすぐにやめていく。
短絡的な目的だけで、このブログを読んだりレッスンを受けに来る若い人たちが大勢いるのは嘆かわしいことであり、そのような人の演奏には要するに教養がないと感じる。
教養というのは非常に大切であり、間違ってはいけないのは知識として留まってしまう学問としての教養ではなく、それを起源に人としてどう感じ、どう生きるかということに結びついた教養である。
教養のない演奏をする人、教養のない発言や行いをする人が昨今多く感じるのは私だけではないだろう。どこのピアノ教室にもそのような生徒や生徒の親が多く存在し、教師は頭を悩ませているだろう。
間違えてほしくないのは、知識をたくさん得るという意味ではなく、真の教養を身につけることであり、そのためには多くの魅力ある人々とふれあい、たくさんの書物を読み、芸術に触れ、教養豊かな人になるということがなければ、どんなに上手く弾けたとしても魅力ある、そして品格ある演奏にはならないと思う。
教養のない人だ、教養のない演奏だと思われてしまうのは全否定されたに等しく、そんな思いをしたくなければ日々研鑽あるのみ。