最近、かの有名な白洲正子氏の著作を拝読させていただいています。氏の文章から学ぶこと多く、能、生け花、骨董、着物などを通して、氏ならではの鋭い審美眼に敬服しております。
能をはじめとした、日本の伝統の世界では、簡単に申し上げて、まず「型」を学び、己を消し去っていく。その境地に到達できた者だけが、そこから自由に羽ばたくことが出来るそうです。
これを読んだときに、西洋音楽もまた同じであるということを感じました。私はピアノの世界でのみ、内側から感じることが出来ますが、他の分野については想像でしかないのですが、氏の著作から、それでも、何かを感じることが出来ました。
私が歩んできた道もしかり、今、教える立場になって、習っている生徒たちを見ていてもしかりで、なるほど、その行程は微妙に違えど、同じなのです。
ピアノを本格的に学び始めた瞬間から、学生時代、そしてその後の修行の過程において、ひたすら「型」を学ぶのです。
学校の試験やコンクールにおいても、まずは「型」を知っているかどうかを評価されるのであり、したがって、その「型」に対して数字で点数が付くのです。
「型」を学ぶ行程において、己というものはどんどん小さくなってゆきます。ベートーヴェンならベートーヴェンの「型」、ショパンならショパンの「型」をまず知らなければならないのです。
それはどう弾くか?という解釈の上でも、テクニックの上でも、「型」が、確実に存在するのです。
己を消してゆく行程は、本当に厳しい日々ですが、それを乗り越えてはじめて、感じられ見えてくる世界が待ち受けています。それが「個性」なのかもしれません。
その段階まで極める人は、ほんの一握りでしょうし、その途中であきらめてしまう、勉強をやめてしまう方のほうが圧倒的に多いことでしょう。
古今東西、芸術というものは、みな共通する何かが存在するようです。
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