私の生徒、堀田英里香が先日のプレトニョフの演奏会に行き、その感想をまとめたものです。
彼女ならではの面白い観点で述べられているプレトニョフの世界。ぜひ掲載させていただきます。

今年は名だたるピアニストが次々に来日し、1年の前半だけでもヴィルサラーゼ、キーシン、そして遂にプレトニョフを聴いた。

 

私の中では、この方は謎めいていて、不思議なオーラに包まれている。

大声で笑ったりするのだろうか…

人懐こく優しいのか、それとも無口で厳しいのか…

クールなのか、おおらかなのか、人が好きなのか、人が苦手なのか…

その人間像が、はっきりと描けない。

見た目や雰囲気からは、どこか中性的で、無色で、無機質な要素を感じる。

 

音楽はというと、ピュア。究極に純粋。

選曲からもそれを感じる。

シューベルト、バッハ、スクリャービン。

飾り気のないシンプルでピュアな音楽の中に、スケールの大きなドラマが描き出される。

華美なもの、煌びやかなもの、とろけるように甘くロマンティックなもの、そういうものを拒絶しているようにも感じられる。

 

たっぷりのクリームや、バターの香りや、濃厚なソース。ヒラヒラしたフリルや美しいレース。

そういうものは一切無い。

素材の良さ、響きの美しさだけで作り上げられる音楽。

飾りで人の心を惹きつけるのではなく、余分なものの無い、本当に心に届く響きだけで語られる音楽。

それを実現するために、あえてスタインウェイの豊潤な響きを避けたのかもしれない。

 

実際、リサイタルの間中、私はピアノの響きを聴いているはずで、或いは幾重にも重なり変幻する倍音の層を眺めていたはずだけれど、聴き終えた時の感覚はプレトニョフが語るのを聴いていたような、物語を見聴きした後の感覚に似ていた。

言葉よりも浸透度が高い響きが、スーッと心の奥まで染み込んでくる。

意味のわからないフレーズは一つもない。全てが意味をもって語りかけてくる。

1音ずつ、響きにメッセージがある。

 

シューベルトなどは、「古典はこうあるべし!」という思想をもった偉い先生方からは、「なんですか、あのシューベルトは!」と怒られそうな勢いだった。

けれどもプレトニョフの倍音によって描き出される世界は、優しく、瑞々しく、はかなく、愛おしく、シューベルトの大切にしているもの、ピュアでドラマティックな世界そのものだった。

倍音は気体のように会場全体を包み、柔らかな液体のように、心の芯に染み込んできた。

 

子供の頃からずっと大切にしている感覚、無意識のうちにずっと守られてきた感覚、そういうものが自分の中にある事に、気付かされる。

大人になるにつれ、余分なものが増え、飾ってみたり、贅沢してみたり、言葉を装飾して人と関わってみたり、無意識に本心とは逆の相槌をうつようになってしまったり。。。

プレトニョフの響きは、そういった余分なものが無い、魂の純粋な部分にのみ語りかけてくる。

小さい頃はそんな世界に生きている事が当たり前だった。けれども世の中を知るほどに、そんな世界は無いに等しい事を知ってしまう。

プレトニョフの演奏を聴いている間、倍音に包まれている間は、小さい頃信じていたピュアな世界にいられるという、なんとも言いようのない安心感があり、と同時にそこには儚さもあり、何故だか涙が溢れてくる。

 

更に、特筆すべきはスクリャービン。

プレトニョフにとって、この日のプログラムの中で最も身近に感じている作曲家なのだと思う。

作曲家との距離がグッと近く感じられた。

プレトニョフの演奏を聴いていると、まるでスクリャービンの日記を見てしまったかのような感覚になる。

3階席の隅まで余裕で染み渡るピアニシモ。

あんなピアニシモで演奏するピアニストは初めて。

プレトニョフの描く世界を堪能した。

 

この奏法を学び、プレトニョフの手のひらがどんな事になっているか、脱力の具合、支えの具合がどんなふうか、手に取るようにわかるようになった。

レベルの差はこの際置いておくとして、あのプレトニョフと同じ言語(奏法)で音楽に向き合っていると思うと、幸せで、力が湧いてくる。

 

私としては、なんだかんだ言ってもスタインウェイで演奏して欲しい、スタインウェイでプレトニョフの哲学を実現して欲しいな…と思ってしまうけれど。。。





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