多くのピアノのレッスンの現場において、生徒に対して教師が示唆すること、特に日本においての教師の言葉には、絶対的な空気が漂っているように感じます。

 

確かに、教師は生徒のためを思ってレッスンするわけですから、あながち否定はできません。

 

ただ、音楽というものを考えたときに、そのあるべき姿は、様々な感受性によって、正しいとされるものは、おのずと変化するのです。

 

そもそも、レッスンの場において、正しいか間違いかということを最大の目標、目的にしているレッスンに対して、私は疑問を感じます。

 

もちろん、その生徒の音楽的成熟度にもよりますが、あるレヴェル以上の生徒のレッスンにおいては、音楽的に正しいことはすでに認識していることであり、それを最大のテーマにレッスンをするというのは、ピアノのレッスンというよりもアナリーゼのレッスンと言った方がふさわしいように思います。

 

私にしてみれば、音楽的解釈以前の部分、それは本当に基礎的な美しい響きを出すこと、美しい響きにこだわることに始まり、その美しい響きがあるからこそ可能な多種多様な音楽的表現、音楽的解釈が生まれるのであり、それをないがしろにして、やれ解釈がどうのこうのといったレッスンでは本末転倒であると思います。

 

とにもかくにも、生徒1人1人によって感受性は異なり、よって演奏解釈も同じく異なるのが自然だと思うのです。

 

教師が、ある1つの音楽的解釈を、しかもそこには絶対的な意味合いを込めて示唆するということは、非常に危険なことであり、私自身に対しても、常日頃から戒めなければならないことだと思います。

 

ヴィルサラーゼ氏のインタビューにもありましたが、作曲家自身でもないのに、その解釈が絶対に正しいと言える人は、この世には誰一人としていないということです。

 

もし、言い切れるとすれば、それは残念ながら、その教師の「おごり」と言わざるを得ないでしょう。

 

生徒の音楽的成長を期待するならば、その生徒ならではの感受性からくる音楽的解釈というものも尊重するときはするという、広い心を持ち続けたいと思います。




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