このことについては、非常に難しく、感覚的な世界なのですが、とても重要なことなのでお話ししたいと思います。



モスクワ音楽院教授で、素晴らしい演奏家である、エリソ・ヴィルサラーゼ氏もインタビューでおっしゃっていましたが、テンポ・ルバートというものは、あらゆる作品においても存在するという事です。



そもそも、自然に聴こえる音楽というものには、テンポ・ルバートが必ず行われていると思います。それが、どんなにさりげない程度であって、聴いている者には、きちんとメトロノーム的に弾かれているように聴こえる場合であってもです。もし逆に、本当にメトロノーム的にテンポ・ルバートをしないで弾かれた演奏を聴いた時には、私は違和感を感じます。



私の生徒の何人かの演奏を聴いている時に良く感じる違和感というものがあるのですが、後から思いだしてみると、その演奏にはテンポ・ルバートが存在しない場合が多々あるように思います。



私自身の子供のころから受けてきた教育の内容を振り返ってみますと、ここで言うテンポ・ルバートを残念ながら排除した演奏を求められてきたように思います。もちろん、きちんと弾けない子供だったころは、プロになるならば、まずは楽譜に書いてある通りに弾くことが要求されて当然ではありますが、音楽を学ぶ上で、私自身の中に刷り込まれてしまった、イン・テンポの世界、感覚に対して違和感を感じながら弾いていたように思います。



このことは非常に重要なことで、本来ならば、音楽的なテンポ・ルバートというものが存在したうえでのきちんと弾くという事を教育するのが良い指導ではないかと思うのです。



教える立場になった今、若い学生の多くの演奏を聴いていますと、そのテンポ・ルバートが存在しない演奏がいまだに多く存在し、現在の日本の教育現場において、それを教えられない、もしくは相変わらずそれが正しいと思っているピアノ教師が多いように感じられます。



私が、マルタ・アルゲリッチやウラディーミル・ホロヴィッツの演奏を好んで聴いていた学生時代、そのレコードから聴こえる世界と、現実に受けているレッスンの要求される音楽との間には大きな隔たりがあることを子ども心に感じ、大げさかもしれませんが、悩んでいたこともあったように思います。



どんなにアカデミックな世界においても、本来はテンポ・ルバートというものが存在した自然な音楽を教育するのが自然なことであり、重要なことです。



このことは、私の推測ではありますが、明治時代にドイツのピアニズムが日本に輸入され、そのドイツピアニズムの発想から来る、楽譜の読み方というものが、本来の良い意味でのドイツ的な演奏ではなく、生真面目な日本人の性分と重なり、ある種の誤解のもと日本に根付いてしまったのかもしれません。



また、このテンポ・ルバート、また広くはリズム感に及ぶと思うのですが、その多くはどんなレコード、演奏を聴いてきたか?によって感覚的に身についた、ある意味で先天的ともいえる領域のことであり、これを後天的に教えるのは大変難しいことだと思います。



しかし、私の生徒たちを見ていますと、このことに自分自身で問題意識を持って、自分自身で身につけようと努力できる生徒に限って、後になってからも身に付くことは出来ることだという事も知りました。



総じて、テンポ・ルバートの重要性、それは、例えばJ.S.バッハや古典の作品の演奏においても存在しなければならず、そのテンポ・ルバートの程度の差こそあれ、自然に聴こえる音楽というものには、必ずテンポ・ルバートが存在することを申し上げたいと思います。




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