最近、プレトニョフやホロヴィッツを聴いていてつくづく感じ、そして思う事は音の色の変化の芸術であるという事です。
彼らにとって、音の色が見えることは当たり前のことであり、その色を介在した音楽の解釈であり、演奏であり、音の色が絶対不可欠であると思います。
しかしながら、音の色というものは、私のイメージでは10人いたとすれば、2,3人程度の割合の人にしか見えていない、感じていないような気がします。
ですから、以前の章でも申し上げましたが、ホロヴィッツの演奏に対しての賛辞の言葉が、色彩感よりも技巧の方に偏っていると思うのです。
音の色が見えない人にとって、ホロヴィッツの演奏は技巧と音量しか聴こえないのかもしれませんね。
ホロヴィッツの特に晩年の録音である、ドイツ・グラモフォンの録音においては、音量は控えめで音の色の変化で音楽を作っているように思います。
音の色が見えるようになるには、個人差があり、私の生徒たちを見ていても千差万別です。音の色が見えても、それが自分の演奏に反映されるようになるまでは時間が必要ですが、色さえ見えれば、それを目標に頑張れると思います。
今更ながらですが、音の色が見える人の演奏というものは案外世界中を見渡しても少なく、また、やはりこれも重要なことの1つですが、音の色が見える調律師さんの調律もまた必然であり、音の色の変化のつく状態の楽器でなければ、音の色を変化させることもできないわけで、調律師さん、楽器、奏者のすべての条件が必要になることを感じます。
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