今日、私の1番弟子とも言える、桐朋学園大学講師の川村文雄と小1時間音楽談義に花が咲きました。その中で、彼が最近の学生の演奏に感じることが話題になりました。それは、1音1音に対する意識が希薄で、長さもタイミングも間違っている。弾いている本人がそれに問題意識も感じていないようだし、さりとて、粒をそろえてきちんと弾くというわけではなく、またそれを目標にしてもらっては困る・・・というような内容でした。
その件については、ある意味同じようなことが私の生徒たちにも言えることで、大変興味深く思った次第です。
先日のレッスンのことです。曲はJ.S.バッハのトッカータ c-moll BWV911です。
彼女の演奏は、非常に音楽的であり、タッチも多彩、よって色彩感も多彩です。ポリフォニィーの作品における各声部の弾きわけも出来ている立派な演奏です。
しかし、そこには大きな問題が1つあったのです。
それぞれの音の長さや音のなるタイミングに問題がありました。そのように弾いてしまうと、聴いている者には、いい加減で雑な印象が残ってしまうのです。他の要素が素晴らしいだけに、だからこそ、そういう部分が目立って聴こえてしまうのかもしれません。もちろん、彼女も川村文雄に続く逸材の1人ですから、それに問題意識がないわけではないと思うのです。
私が彼女に示唆したことは、それぞれの音の種類や長さや音のタイミングにはストライクゾーンのようなものがあり、その中に音を鳴らさなくてはいけないという事。しかも、そのストライクゾーンのぎりぎりのところを狙う事が大切であるという事。このぎりぎりと言うところが大変重要であり、彼女自身もそのぎりぎりを狙って弾いていたように思うのです。しかし、残念ながら、そのぎりぎりを超えてしまう、ストライクゾーンをはみ出してしまう事が多かったのです。
その逆の話になりますが、仮にストライクゾーンのど真ん中を狙った演奏があるとします。言い方を変えれば、ソルフェージュ的に正しいと言えるのかもしれません。私はそのような演奏を聴いていると、あまりにも無味乾燥な印象を持ってしまい、いわゆる、非音楽的に聴こえてしまうのです。演奏者本人が意識してか、また無意識なのか、粒をそろえてきちんと弾くことが最大の目標にあるのではないか?と感じさせられてしまうのです。
ここで大切なのは、先に申し上げました、ストライクゾーンのぎりぎりのところにぎりぎりの音を鳴らすことが重要でもあり、大変難しいことだと思うのです。そのような演奏には、ある種の緊張感や集中が宿り、その音楽に命が宿るのです。そして、それは聴く者の意識をつかんで離さないと思うのです。
ロシア人ピアニスト多くを、西ヨーロッパの、特にドイツやフランスのピアニズムのピアニストと比較した場合、聴き手の多くはロシア人ピアニストの弾くベートーヴェンを出鱈目と感じる人は少なくないと思います。確かにストライクゾーンを外してしまうピアニストもいるように思いますが、私の個人的な感覚からすると、先に申し上げたストライクゾーンのぎりぎりのところで、ストライクゾーンぎりぎりの音を鳴らしているように感じます。
ウィーンで多くを学んだマルタ・アルゲリッチの演奏にも同様のことが感じられますし、私からしてみれば、アナトール・ウゴルスキの弾くベートーヴェンも同様に感じ、またそれ以上の何か、それはより思索的と申しましょうか、哲学を感じることが出来ます。あの演奏をテンポが遅いから駄目だと切り捨ててしまうのは簡単なことかもしれませんが、私にとっては非常に魅力的でもあり、ベートーヴェンの最後のソナタを締めくくるアリエッタに深く共感します。
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