一昨日のレッスンのことです。
その日の生徒はスクリャービンのソナタ第7番 作品64「白ミサ」を持ってきました。
一般に、この「白ミサ」のソナタが演奏会で弾かれることも少なく、残念ながら、まだ理解されていない、もしくは見向きもされない作品と言えるかもしれません。
その生徒の演奏は、今から思い返しても、本当に素晴らしい演奏でした。しかし、まだその上に、私が思うところのスクリャービン、それはゲンリッヒ・ネイガウスの演奏が正に名演であり、そこからインスピレーションをうけたスクリャービンなのですが(ちなみに、ゲンリッヒ・ネイガウスのスクリャービン、ショパン、ドビュッシーは特に素晴らしいと思いますが)、そのような要素や、ピアノという楽器本来の扱い方から来るスクリャービンの音楽との接点などを指摘し、よりスクリャービンらしい「白ミサ」となったように感じました。
ここで思うのは、この「白ミサ」に限らず、どちらかと言うと、主要なピアノ作品として見られていない傾向がありつつ、実は意味深い作品であり、主要な作品として認知されるべき作品にもかかわらず、ある種の偏見、抵抗感から来るのかもしれませんが、敬遠されがちな作品というものがあると思うのです。
演奏会で取り上げられる曲目が、流行りもあると思うのですが、やはり、ある種の枠からはみ出ない傾向があるのは否めないと感じます。
その理由の1つに、集客ということを考え、結果としてそうなるのが1番の理由ではないでしょうか?
このことは、非常に残念なことだと思います。例えば、ディーナ・ヨッフェ先生の場合でも、ショパン国際コンクール第2位という実績があるために、いつも必ず、プログラムの半分はショパンを弾かねばならないという、何とも気の毒な状況にあります。もちろん、ヨッフェ先生のショパンは素晴らしいのですが、シューベルトやベートーヴェンやプロコフィエフなども、本当に素晴らしい演奏をされる方だと思いますので、いつかショパン抜きのプログラムで是非聴きたいところです。
以上、様々な理由から、演奏会に取り上げられるプログラムというものに、節度のある(珍しければ良いということではなく)、それは、弾くべき内容がある、後世に伝えるべき作品というのが、集客というビジネスとは関係のないところで行われる時が来るとすれば、それは日本の聴衆の聴く耳が出来た時と言えるのかもしれません。
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