一般に、ピアノを弾く上で重要なことに、粒をそろえるという概念があります。例えば、スケールの練習をする時に、最大の目標は粒をそろえることにあるような気がします。
粒をそろえるということは、ある意味で重要なことであり、それが出来なければプロとは言えないのかもしれません。
しかし、純粋に音楽として考えたときに、例えば、あるパッセージを均等に粒をそろえて演奏してしまうことに、私は違和感を持ちます。
このことは、ピアニスト内田光子氏もインタビューでおっしゃっておりました。
どのようなピアニズムを背景とした奏法であれ、粒がそろってしまうと、音楽的には聴こえないと感じます。ですから、スケールの練習で粒をそろえることができるようになったとしても、その技術は作品を演奏するという段階においての実践では使えないし、また、使うべきではないと思います。
粒がそろっているというのは、音の長さも音色も同じになってしまうことであり、私に言わせれば、粒をそろえることを目的としたスケールの試験など、まったくもって不必要なことだと思ってしまいます。
ロシアピアニズムの奏法で、なおかつ、その中でも倍音で弾く、聴かせるタイプのピアニストの演奏は、指自体の運動的な観点から言っても、また、近くで聴いても、粒はそろっていません。
もし、仮に粒をそろえるとすれば、空中に広がる響きの中で粒がそろっているという、摩訶不思議な現象、耳の錯覚かと疑いたくなる事が行われているのです。もちろん、このことは仮のことであり、音楽的観点から、空中に広がる響きであっても粒を揃えるべきではないとは思います。理想は、近くで聴いても遠くで聴いても、粒がそろっていない、音色の変化が存在してこそ、音楽として自然に聴こえるのです。
この逆である、指自体の運動的な観点でも、また近くで聴いていて、立派に聴こえる音で粒をそろえてしまうと、空中にはまず広がりませんが、仮に残響時間の長いホールで聴くと、音の粒がそろっては聴こえません。それどころか、音の粒と音の粒がぶつかり合ってしまい、ステージの上だけで音が混濁してしまい、聴く者はその混濁した響きの中から、音を自分の耳で探して拾うという、なんとも大変な作業を無意識のうちにしなければならなくなります。
このことは、残念ながら日本はもとより、全世界的に認知されていないことであり、ごくわずかなピアニストやピアノ教師だけが知っている認識なのです。
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