私が留学していたオーストリアでは、ベートーヴェンのことをルートヴィック・ファン・ベートーフェンと発音します。ご存じの方も沢山いらっしゃると思いますが、ドイツのドイツ語とオーストリアのドイツ語は発音が違います。



それはさておき、昨晩、ふと気が向いて久し振りにベートーヴェンのソナタ第31番op.110とソナタ第32番op.111を弾いてみました。それはとても懐かしい感覚とともに、改めて、作品の持つ奥深さ、私が若い頃に弾いていた、感じていた感覚とは異なるものを感じることができ、偉大なベートーヴェンの存在意義を認識することができました。



ロシアピアニズムの奏法を探求してくると、なぜか?ベートーヴェンをおざなりにしてきてしまったようにも思い、少々反省してみたり・・・。



それにしても、偉大すぎて、簡単に「弾く」と言うよりも、それ以上の感覚、「対峙」するという言葉の方がしっくりきます。



ふと、思ったのですが、私の学生時代、ベートーヴェンの100番台の晩年のソナタ5曲というものは、あらゆるピアノ作品の中で圧倒的な存在で、留学する前には第29番op.106「ハンマークラヴィア」を除く4曲を既に勉強していました。



もちろん、今から思えば、その演奏は稚拙なものだったと思いますが、それはそれで私にとって、とても大きな財産になったと思います。



そこで思ったのが、私の今まで教えてきた生徒たちを考えたときに、ベートーヴェンの晩年のソナタに挑む学生は、とても少なく、少々驚きました。



確かに、ベートーヴェンの晩年のソナタ以外にも勉強するべき作品は膨大な量があり、技術的な面から考えたときに、ロマン派以降の作品を勉強した方が良いのかもしれませんが、音楽というものは、技術を超えて存在するべきことかもしれません。



ベートーヴェンの晩年のソナタより、技術的に難しい作品はいくらでもありますし、そういう作品を勉強して技術が身に付くということもあります。また、技術が伴っていなくては、どんな作品であろうとも、その中身である音楽は表現不可能なのも事実です。



まあ、いずれにせよ、どちらも勉強するのが理想と言えるのではないでしょうか。



例えまだ若くとも、その内容を理解するのは困難であっても、若いうちに晩年のソナタに挑むことは大切に思います。



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