私自身が、ロシアピアニズムの奏法に変えたことにより、大きく意識が変化したことは多々ありますが、これから申し上げることは、その中でも特に特に大切なことです。
それは、曲を練習していく過程、曲を作っていく過程で、どのような作り方をしていくか?ということです。
このことは、実はロシアピアニズムの奏法ならではの大きな特徴とも言えるのかもしれません。
イソップ物語に「3匹の子豚」という話があります。その中で3匹目の子豚は、レンガを1つ1つ積み上げながら、長い時間をかけて家を作っていきます。レンガを音符に例えるとすれば、1つ1つの音を大切にする、すなわち、1つ1つの音の音色、タイミング、強弱などを考えるのではなく、感じる、イメージすることから始めることが大切になります。
ですから、それまでの私の曲の作り方というのは、まず大きなフレーズがどこまでか?ということを優先的に考えていたと思いますから、全く逆の意識だったと思うのです。私が申し上げたいのは、先にフレーズを作る、意識するのではなく、1つ1つの音を追って行った結果としてフレーズが出来上がるということです。
これにより、1つ1つの音に生命が宿ると思うのです。
日常社会において、色々な役割の人が存在するからこそ社会は成り立っています。その人がどんな仕事やどんな地位にいようが、その存在意義は必要とされ、失われることもなく、全ての人の存在に意味があるのと同じことだと思います。全ての人は、それぞれの社会的役割の中で、それぞれに輝いていると思うのです。舞台の表に立つ人もいれば、裏方に回る人もいます。1つ1つの音は、それと同じように、それぞれの音の存在価値があるのです。
もし、1つ1つの音よりも、フレーズを大切に、優先的に捉えてしまうと、そのフレーズの中に、生命が宿っていない、意識の中にない音が混ざってしまう危険性があるように思います。
演奏において、そのような音が出てしまった瞬間というのは、聴いている者にわかってしまうものです。私はそのように弾かれてしまった音がある時に、その演奏者が、その音を捨ててしまっているように感じます。
演奏の中に捨てる音は1音たりともあってはならないのです。
また、そのような演奏、そのような順番や意識で作りあげられた演奏というものには、残念ながら「額縁」が出来上がってしまうと思います。「額縁」という枠の中で、演奏される時ほど、聴いていて退屈な物はないと感じてしまいます。要するに、フレーズが先に優先的に意識された演奏、そういう順番で作り上げられた、その演奏には無限に広がる想像性が欠けてしまうということです。
演奏というものは、聴く者に自由で無限に広がる想像性を掻き立てられるようなものでなくてはならないと思うのです。ですから、「額縁」がない演奏を心がけるべきだと思います。
以上申し上げたことは、私自身、奏法を変えたことによって、結果として変わった意識です。1音1音単位で音色を変えることを意識して、初めて生まれた感覚です。このことが、実はロシアピアニズムの奏法による演奏の大きな特徴であり、醍醐味でもあると思うようになりました。
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