これはエチュードだけにとどまらず、ショパンの作品全体に言えることなのですが、音楽的にも技術的にも、強拍が弱拍に存在するということです。
私はこのブログで個々のエチュードについて書きましたが、一昨日、生徒がショパンのエチュードを10曲ほどレッスンに持って来たことがきっかけで、今更のように気がついたことでもあります。そして昨日も他の生徒がショパンのエチュードを持ってきて、同じ指摘をしてみたところ、本人は技術的に弾きやすくなったという実感が持てたようですし、聴いている私からしてみると、音楽的に全く違った印象を持つほど激変しました。
例えば、1拍の中に16分音符が4つあるとします。一般的には1つ目の16分音符を強拍として意識しますが、これをしてしまうと弾きずらいのは言うまでもありませんが、音楽的にショパンにならないのです。
1つ目ではなく、場合によりますが、2つ目や4つ目を強拍のごとく意識するのです。ただ注意しなければならないのは、あくまでも意識であって、アクセントをつけてはなりません。
強拍を強拍として弾いてしまうとチェルニーのエチュードになってしまい、4分の4拍子の場合、1小節に4つの柱が立ってしまうように聴こえてしまい、ショパンの音楽というより、古典の作品を聴いているような、もしくは息苦しさを感じるほどで、まさしくエチュードをエチュードとして弾く感覚であり、またそう聴こえてしまうのですが、強拍を弱拍にかんじることにより、音楽が回転していくように流れ始め、エチュードがエチュードとしてではなく、本当の意味で芸術作品として聴こえてくるのです。
これは、短いフレーズの存在の仕方が絶妙に存在することになり、ある種のリズムが生まれますし、またそれにより、倍音の混ざり方が変わりますので、響きの色が絶妙に混ざり合うことになるのです。
私自身の学生時代、何かとコンクールではショパンのエチュードをたくさん準備しなければならない時代でしたので、とても大変でしたし、なんでこんな基本的なことに気がつかなかったんだろう?と今更ながら思います。もしこれに気がついていたら、どんなに楽であったことだろうか?そして、ショパンのエチュードを弾くことがどんなに楽しいことであっただろうか?と思ってしまうほどです。
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