昨日、モーツァルトの幻想曲ニ短調をレッスンしていて思ったことです。
私の中には、ザルツブルク留学中に学んだモーツァルトというものがあります。この感覚は、ある意味ではオーストリア的とも言え、これはオーストリアという場所で弾かれている感覚、それはローカルな感覚でもあるのですが、私にとってのモーツァルトのあるべき姿を自分自身で再認識しました。
例えば、2音間にかかる小さなスラーが連続している場合、一般的には大きなスラーとして弾かれますが、私の感覚では、その小さなスラーとスラーの間に、一瞬の隙間を作ります。例えば8分音符が2つ並んでスラーがかかっている場合、2つ目の音を少しだけ短くして、次の音までの間に小さな休符を入れるのです。
これは、日本に於いては一般的ではないことで、私自身も留学するまでは、そのようなアーティキュレーションはしませんでした。しかし、ザルツブルクにおいては、ごくごく当たり前の感覚で、当初は大変驚きもしましたし、だんだん、それが普通のこととして感覚がずれていったものです。これはドイツ語の語尾が短くぶつかる子音で終わることに似ていると思います。言葉の音が持つ特有の感覚とフレーズの処理の仕方に類似性があることの1つの例です。
もう1つは、縦の意識が非常に強いことです。これもドイツ語という言葉のニュアンスに似ていると思います。一般にモーツァルトの長い16分音符のパッセージに於いて、美しく流れるように弾かれますが、私の場合、その流れが、ある意味で流れないように弾きます。流れてしまうとモーツァルトではなく、まるでショパンのパッセージになってしまうように思います。
流れないようにということは、1音1音が、一瞬ですが止まっているかのごとく(あくまでも、ごとくであり、止まってしまうという意味ではありません。非常に微妙な感覚で難しいことです。)に存在するべきで、弾いている感覚としては、多少我慢して弾く感覚です。むしろ流してしまった方が、ある意味で心地よいですし、弾きやすいのですが、モーツァルトではそれは行いません。有名なアリア、魔笛の夜の女王のフレーズは、一般的に流して歌われていませんし、ショパンが好んで聴いていたベッリーニのアリアのフレーズの歌い方とは異なると思うのです。しかし、止まっているからと言って、その音に倍音の余韻が残っていなくてはいけないと思います。そうしないと、音の方向性が全くない音になってしまい、いわゆる音の粒だけで弾くことになってしまうからです。でも、これを実践することは大変難しい、高度な技で、そのように弾いている演奏家は、ごくまれだと思います。モーツァルトを弾く時の本当の意味での技術的な難しさです。
こう考えてみると、その時代によりクラシック音楽は特徴がそれぞれにあると思いますが、古典の時代の様式感というものが、どの時代よりも、例えばバロックの時代よりも、ある意味で制約が多く、自由が許されないように感じられます。バロックの時代の音楽方がもっと自由だったと感じられることは、ちょっと意外というか興味深いことだと思います。
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