クラシック作品は芸術です。そこにははかり知れないほど、深みや重みというものがあります。だからこそ何百年経った作品でも、すたれることなく演奏されるのです。
最近の若者の演奏を聴いていて感じることがあります。これはパーヴェル・ネルセシアン先生も雑誌のインタビューで語っていたことなのですが、技術的に弾けているだけで、内容を理解していない、表面的に演奏をする若者が多々いるということについてです。
現代社会の日常生活というのは、作品が作られた時代とは違い、便利で物や刺激であふれています。それが原因ゆえか、日常生活の感覚で芸術作品を、気がつかないうちに捉えてしまっているのです。ですから、作品を演奏する時に必要な様々な物事を求めていないし、求めようとさえもしない、求めなければいけないということにさえ気がついていないかもしれないということです。
要するに、現代社会に於いて必要とするものを考えたときに、人は健康やお金や仕事を求めますが、音楽を第一に求めるわけでもなく、またその必要もない社会なのです。
芸術作品と対峙するということは、例えて言うならば、この現代の都会の生活が日常生活であり、何の不便もない満ち足りた生活を送っている人が、敢えてその社会を捨てて、南の孤島に眠っている宝を手漕ぎボートで一人で探しに行くというような、まったくもって非現実的なことをすることに似ていると思うのです。
芸術作品は孤島に眠る宝のようなものであり、特別な物なのです。現代社会で生産されているオートメーションで作られている製品とは違うのです。
そのような宝を、敢えて自ら能動的に全ての犠牲を払ってまでも求めることであり、現代の日常生活の中の感覚では、決してありえない行為なのです。
これは、言ってしまえば、現代風の「おたく」でなければ、音楽など求めないし、「おたく」だからこそ、孤島に眠る宝にたどり着くことができる、そして、そこには音楽の持つ真の喜びというのがあると思うのです。
真の喜びは、たやすく手に入るものではありません。人生をかけてたくさんのエネルギーと時間を費やした人だけが得られる「特別な物」だと思います。
私の友人が言っておりましたが、茶道の世界に置き換えたときに、真の抹茶の味を知るより、たやすく抹茶風味を楽しむ人々で溢れかえっているということです。アマチュアの方ならいざ知らず、プロの世界でも残念ながら感じてしまうことです。抹茶風味で満足していては、真の音楽をする喜び、醍醐味を味わうことは出来ないのだと思います。
現代社会がどうであれ、一人間として、何物にも増して能動的に音楽を求める。「おたく」でなければ、音楽の世界に限らず、どの分野に於いても、その道で極めることは出来ないのだと思います。
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