最近、マタイ受難曲を聴いているからか、ふと思ったことがあります。 

楽譜を眺めていると、和声のおかげで縦軸があり、メロディーは横軸になると思うのです。

もともと、J.S.バッハ以前の音楽では、ポリフォニーであっても横軸で音楽が形成され、そこには縦軸である和声はまだ確立されてなく、J.S.バッハの出現によって縦軸である和声が確立されたと聞きました。



作曲家や作品にもよりますが、特にドイツ作品においては縦軸をしっかり認識し意識して演奏しないとならないことを感じます。もちろん、横軸も存在するわけで、例えば、モーツァルトの作品などは確固たる縦軸とともに横軸である線(ライン)にで形成されている音楽であり、ベートーヴェンにおいては主に縦軸である和声によるブロック、固まりで音楽が構築されています。



これがロマン派以降になると、メロディーの美しさが際立ってきますので、横軸の存在が目立ちますし、その横軸を意識することによってロマンティツクな要素が増すように思います。例えばシューベルト、シューマンやブラームスなどは、場所によっては縦軸の存在をはっきりさせつつも、やはり横軸であるメロディーの存在というものも大切であり、縦軸と横軸の混在と申しましょうか、その場所によって意識を変えることが必要に思います。


これが同じ時代のピアノの大作曲家であるショパンの場合ですと、縦軸は存在しますが、横軸であるメロディーをいかに魅力的に歌い上げるか?いかにロマンティックに表現するか?ということが大切な要素であるのは皆さんもお感じになられると思います。



このように縦軸である和声、もしくは縦の線とも言えると思いますが、それを強く意識して演奏するべきか?横軸であるメロディーを優先させ、縦の線を強調しないことでロマンティツクな表情を強調させるかにより、演奏というものは同じ作品であっても、全く違った顔を持つことになります。



これがチャイコフスキーやラフマニノフという、どちらかというとロマンティツクなイメージ、横軸であるメロディーラインの美しい作曲家の作品において、文字通り横軸を意識し、強調しロマンティクに演奏するということが一般的でありますが、私個人としましては、チャイコフスキーの頭の中にはオーケストラが鳴っていたと思いますし、ラフマニノフにも同じことを感じるのです。



そもそもオーケストラというのは複数の大人数で演奏するわけで、皆が一斉に縦に合わないと音楽が成立しません。ですから、横軸である魅力的なメロディーを歌いあげるのですが、そこには同時に確固とした縦軸の意識が必然であり、ある意味で縦軸と横軸が混在するべきだと思うのです。それが証拠に、ラフマニノフ自身の演奏の録音が残っていますが、その演奏は、自身の作品であっても、ロマンティクなメロディーである横軸に流されることのない、確固たる縦軸の存在を感じることができる、ある意味で古典的な要素を感じるのです。



そんなことを考えていた私ですが、最近、ふと頭に浮かんだことがあります。



J.S.バッハによって確立された縦軸と横軸の混在というのは、「音楽の父」と言われるほど功績が大きいことであると同時に、縦軸と横軸が確固たる存在となった時に、いわゆる縦と横の線である「十字架」を形作っているということに気がついたのです。



キリスト教の中で生まれ育まれてきた西洋クラシック音楽なのですから、これは何かの偶然ではないように感じるのです。例えば、その民族の文化である言葉をとっても、ヨーロッパの言葉というのは子音やアクセントがはっきりと存在し、縦軸と横軸が存在しますが、日本語などは、明らかに横軸の言葉だと思いますし、そこから来ているのか?日本の古来の音楽も、やはり縦軸の和声ではなく、横軸で成り立っているように感じるのです。



そのようなことが私の頭に浮かんできたのは、冒頭にもお伝えしたように、マタイ受難曲を聴くようになり、キリスト教の存在というものが私の意識に大きく存在することとなってからであり、先に申した「十字架」は偶然ではないように思う今日この頃です。


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