J.S.バッハが残した偉大な作品の1つであるマタイ受難曲。私はここ数日、このマタイ受難曲に夢中です。CDの種類も3種類目を注文したところです。
なぜマタイ受難曲に着目したかと申しますと、生徒の1人が、やはりマタイ受難曲が好きで、既にCDは8種類も持っているとのこと。教師である私がマタイ受難曲に目をそむけている場合ではないという、ある意味で不純なきっかけなのですが、聴いてみて、なるほど、この作品の素晴らしさはもちろん、J.S.バッハの偉大な功績、彼のキリスト教とともに歩んだ人生、西ヨーロッパにおけるキリスト教の存在、聖書に書かれていることなどなど、キリスト教信者でない私が、キリスト教に目をそむけていてはJ.S.バッハのことを理解できるはずがないのではないか?と思わせるほど手ごたえを感じております。
だからといって、単純にキリスト教を信仰しなければならないというようには思いませんが、全く無関心なのもどうかと思うのです。
ただ、音楽は音楽であり、音楽として「音」で捉えるべきだと基本に思います。キリスト教信者でなくてはJ.S.バッハは理解できない、弾くことは出来ないなどという狭い考えは持ちません。現にキリスト教徒でなくても、素晴らしいJ.S.バッハを弾いている演奏家はたくさんいます。
ただ、プロならば、その作曲家の人生を知識で知るのはもちろんのこと、感覚として感じ取らねばなりません。その際、マタイ受難曲を知ってJ.S.バッハを弾くのと、知らないで弾くのとでは、もしかしたら感じられること、表現できることが違ってくるかもしれないという、非常に抽象的な感覚ですが、その感覚、抽象的だからこそ、目に見えないことだからこそ、大切にしたいと思いました。
先ほども述べましたが、音楽は音楽であり、「音」で純粋に表現するもので、知識は知識に過ぎないとは思います。しかしながら、何も知らない、無知な状態で作品を捉えることは、プロとしては何か間違っていると感じます。
私はこの年齢になって、恥ずかしながら、初めてマタイ受難曲を知ることとなりました。マタイ受難曲に限らず、まだまだ未開拓の作品は山のようにあります。もしかしたら、その作曲家や作品を思い浮かべたときに、以前とは違う何の変化があるかもしれません。ですから、ピアノを弾くという技術的な面も興味深いことですが、作品や作曲家をどう捉えるか?そして、どう感じてくるか?ということの方が、どちらかというと今の私にとっては大切なことのように感じます。
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