数日前に書いた章「スラブ系でなくてはピアニストにあらず」で書き足りなさを感じたので、ここにあらためて書いてみたいと思います。
今から100年ほど前のロシアの混乱期に多数のロシア人ピアニストがアメリカに渡りました。その代表的な存在の1人として、偉大なるセルゲイ・ラフマニノフを挙げることができるでしょう!セルゲイ・ラフマニノフはアメリカに移住しても作曲活動を継続しながら、アメリカ中で演奏活動を繰り広げていました。あの有名なプレリュード「鐘」は、当時のアメリカ人の中では圧倒的な支持を受け、「鐘」のレコードの売り上げは信じられないほどの金額を売り上げたそうで、彼の演奏会では必ずアンコールに「鐘」を弾かなければならなかったようです。このことはラフマニノフの伝記を読めば、必ず書いてあることです。
また、ラフマニノフと親交が深かった偉大なる巨匠、ウラディーミル・ホロヴィッツもアメリカに移住したロシア人としては誰もがご存じのはずです。彼のことは私がご説明するまでもないことでしょう!
彼らに限らず、その他多くの亡命ロシア人が、ニューヨークのジュリアード音楽院など教育活動もしました。中でも有名なのはピアノ奏法の著作を残し、日本でもその著作が発売されているジョセフ・レヴィン、そして、その妻で日本の中村紘子氏や第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したヴァン・クライバーンを育てた名教師、ロジーナ・レヴィン。
そのロジーナ・レヴィン門下からはサッシャ・ゴロドニツキーやミッシャ・ディヒターなど多くの世界的なピアニストが次々と輩出されました。日本人ピアニストで活躍する小川典子氏もゴロドニツキー門下ですし、ミッシャ・ディヒターは、やはりチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞しています。
要するに、挙げればきりがないのですが、アメリカにおいてスラブ系の、特に亡命ロシア人ピアニスト達が、アメリカのピアニズムの基礎を作り、その果たした役割は大きく歴史的事実なのです。
我が国を代表するピアニストの1人、中村紘子氏が留学先をヨーロッパではなく、わざわざアメリカのロジーナ・レヴィンにしたのは、かれこれ50年近くも前の話です。中村紘子氏だけではありません。当時の桐朋出身者で、レヴィンのもとへ留学された方は多数いらっしゃいますし、現に私も存じ上げている先生もその1人です。中村紘子氏著書の「チャイコフスキー・コンクール」を読むと書かれてありますが、ロジーナ・レヴィン先生のレッスンでは、基礎からのやり直しをさせられたそうです。ロシアピアニズムの基礎はレガートにあり、多くの日本人がそのレガートができていなかったのだと。
アメリカばかりではありません。中村紘子氏と同じ井口愛子門下で、やはり日本を代表するピアニストの1人である野島稔氏は、当時国交がなかったソ連に交換留学生として留学出来ました。そのような事実から、今から50年も前の当時の若い日本人ピアニスト達の認識でさえも、留学するのならば、ロシアやロシア系のアメリカ人という方々が多くいらっしゃったのです。
現実的に考え、世界を見渡しますと、国際的に活躍しているピアニストの多くの演奏から、テクニック的見地から観察した時に、その多くはスラブ系、ロシア系であり、多くの作曲家を生んだドイツ・オーストリア系やフランス系ではないということを感じます。そして、アメリカを代表する音楽評論家である、ハロルド・ショーンバーグ氏もドイツ・オーストリア系やフランス系のピアニズムは、かつては栄華を誇っていたが、今は残念ながら見る影もなくなってしまったということをおっしゃっていると、中村紘子氏著書「チャイコフスキー・コンクール」にも書いてあります。
私自身も、やはりロシア系のピアニズムを身に着けておられる、イギリス人ピアニストで第1回リーズ国際ピアノコンクール優勝者のマイケル・ロール先生にお世話になりましたが、最初に「君のテクニックは古いテクニックだよ。僕のもとで勉強したいなら、そこからやり直しをしなければならない」と言われ、中村紘子氏と同じくショックな出来事でした。
以上のようなことから、クラシック音楽の本場はドイツ・オーストリアやフランスであるけれども、ことピアノに関しては、実は100年前からスラブ民族、中でもロシア系のピアニズムが中心となっていることを知ったのです。
ただ、前の章でも申し上げましたが、ロシア系だろうが、ドイツ系だろうが、私の求めるものは、そのような系統だけが色濃く感じられる演奏はローカルな演奏であると感じますし、そうではない、より普遍性を感じられる人種や国籍を超えたインターナショナルな要素を感じることができる演奏が理想です。
クリックお願いします!
にほんブログ村