クラシック音楽の作品は芸術です。しかし、ある作品が必ずしも芸術的内容が深いとは限らないのも事実です。そんな作品に限って、人気があったりすることも感じます。


どの作品が芸術的内容が深いか否かは、主観的なことでありますので、一概には申し上げられないのかもしれません。ある作品やある作曲家に対して、どう思うかはその方の自由です。


しかし、どう考えても、この曲は?と思ってしまう作品があります。そういう作品や作曲家は、コンクールなどの課題曲には選ばれないと思います。課題曲になるような作品というのは、ある意味で王道を行く作品であり、ピアニストならば弾くべき作品であり、その作品を弾くことにより、その演奏者の内的な事柄のすべてが、審査員にすべてわかるのです。


もちろん、自分自身のリサイタルにおいて、弾きたい曲を弾きたいように弾くことが許されるとは思います。ある知名度の低い、演奏されることもめったにない作品を敢えて取り上げるというのも、意味のあることではあると思います。


ここで思うのは、作曲家が作品を書くときに、どのような意識、目的で書かれた作品なのかを考えることは大切なことだと思います。極論ですが、作品によっては聴衆受けの良い、技巧的な面、要素を多く含んでいる、表面的で薄っぺらな作品も世の中にはたくさん残されています。


私の個人的な見解ですが、そのような作品が書かれた目的やそのような作品を選んで演奏する演奏者は、自己顕示欲で演奏というものを捉えているのでは?と思うのです。


私は、そのような作品を自ら選んで、演奏する演奏者のことを思うと、残念ながら、その演奏者の人間的幼さを感じるのです。


それを感じることが多々あるのは、アマチュアの演奏者のコンクールにおいて選曲の傾向に対してです。プロのコンクールでは、絶対に弾かれないような作品や作曲家の名前が多々存在するのです。これは、少々問題であるように感じます。その演奏者を指導している指導者もまた、どうせアマチュアだからと許しているのではないでしょうか?または、独学ゆえにそのような偏った方向に陥ってしまっているのではないでしょうか?


何度も申し上げていますが、技術的に難しい作品を弾きこなすこと、達成感に真の演奏の喜び、意味合いは存在しません。そのようなことを目的としてピアノを弾いているなどとは言えず、それは私からしてみれば、稚拙な行為としか申し上げられません。


演奏するということの真の目的や意味合いを理解し、内容のある、内容の深い選曲で、どうどうと王道を歩むべきだと思います。 

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