演奏家はその奏でる音楽のあり方、つまり表現の核となるものが
「自分」か「作品」かによって、概ね二つのタイプに分けられると言われます。 
いずれも真実であり、私はどちらが正しいという答えをここで述べるつもりはありません。



ただ、遅かれ早かれピアニストはそのいずれかに導かれてゆくものであり、
たとえそれが強いられたものだとしても、プロになるということはそういうことです。



幼い頃の私はピアノ以外にもあらゆることに興味関心を持っていました。
注意力に欠け、一つのことに集中できずに周囲が心配することもありました。



お恥ずかしい話、今日までこうしてピアノを続けることができたこと自体が
私にとっては人生の中の大きな事件であり、「奇跡」と言っても過言ではありません。



先生との出逢いは、偶然にも私が進路を決めかねている時期に訪れました。
音楽の道を志すということに限界を感じながらも、それを受け入れることができず、
私はさまざまな現実を拒みながらピアノに逃げ込むことで自己肯定を図っていました。



今でもよく覚えています ─ 最初のレッスンで先生は傷だらけの私の演奏に対し
「君のようなタイプは東京に出たらいい、桐朋に進学しなさい」とだけ仰いました。



その瞬間、私は何かが正面からぶつかってくるような大きなショックを受けました。
同時に、どこか自身の演奏を認めて欲しくてピアノを弾き続けてきた自分を恥じました。



また、先生が弾かれるバッハ ─ 残念ながら当時の私の知識や理解力を超えた音楽には、
その一音一音の中になにか普遍的な「意味」が存在するように私には感じられました。




その後、桐朋学園大学にて研鑽を積み、卒業後も「意味のある音」に対する希求と挫折
の繰り返しが続きました。指導者としての先生の素晴らしさはここでは書ききれませんが、
私が大野先生の下で培った演奏家としての財産を二つ挙げたいと思います。



一つは「音を創造する」という高い精神性と自ら厳しい試練を乗り越えていく忍耐力。イマジネーションに富んだ豊かな音色が時として無造作に扱われ、音楽の本質を損ねることがあります。大野先生は折に触れ、私にそれを示唆してくださいました。



そしてもう一つは、最初のお話に戻りますが、私自身が自分の音楽の方向性を早くに決めることができたことです。先生は私が音楽家としていかに振舞うべきかを常日頃から助言してくださいました。私が今、「聴衆の目や耳に残るべきものは作品であって、私自身であってはならない。」と自分に戒めることができるのも大野先生の御蔭だと思っています。





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