日本において外来の演奏家や教師のマスタークラスが盛んに行われています。我が家に於いても、ヴァディム・サハロフ、ディーナ・ヨッフェ(約20回ほど)、パーヴェル・ネルセシアン(約10回ほど)、ミハイル・リツキー、エフゲニー・ザラフィアンツ、アンナ・マリコヴァ各氏のマスタークラスが行われ、そして近いうちにイリヤ・イーティン氏のマスタークラスも予定されています。
我が家のことは、私がロシアピアニズムの教師ですから例外なので置いておくとして、一般的に公開で行われているマスタークラスを聴講するといつも感じることがあります。
特に日本の場合、受講生はドイツ系のテクニックであり、教師も同じ系統ならば問題は感じないのですが、ことにロシア系の教師のマスタークラスに於いては問題を感じざるを得ません。
テクニックの基本が違うということは、表現可能な音楽、表現の幅、表現の種類、表現の発想が根本的に異なってしまうのです。
ですから、私の友人でありモスクワ音楽院教授のパーヴェル・ネルセシアンが、受講生に求める音楽というのは、彼の持っているピアニズムの発想の音楽であり、それを受講生が求められ、その場で表現しても、実際には実現できていませんし、実現不可能なことだと感じます。
もちろん、教える側は、そのようなことはわかっていながら、出来ないということがわかっていても、本来はこうあるべきだという意味で、示唆し、横で演奏をしているのです。それによって、その受講生が何か?のきっかけになればと思いながら、教師は出し惜しみすることなくレッスンをしていると思うのです。
ここで気をつけなければいけないのは、受講生である、あなたが出来た!と思ったら大きな間違いなのです!教師の言わんとすることは理解できたとしても、自分が同じことをその場で出来る、出来たと思っているであろう場面を残念ながら感じることは多々あります。
客観的に聴講していて、耳が聴こえる方ならば、その現実がわかるはずですが、受講している、当の本人は気がつかない、出来ていないことに気がついていないという、言ってしまえば、滑稽とも言える状態になってしまうのです。
友人、パーヴェルが毎夏、カワイの表参道のロシアンスクールの講師として、暑い中頑張っていますが、彼の発言や彼の表情から、受講生が彼の意図している音楽を理解していない場面を少なからず見ています。また、受講生の中には、自我が強く、ある意味では能動的と言えるのかもしれませんが、レッスンを受けることの根本がわかっていない受講生もいます。彼の生きている人生においてのステージと20歳そこそこの若者の生きている人生のステージは比較にならないほど異次元の世界なのです。
このブログを読んで下さる方の中に、彼のマスタークラスを受講希望している方がいるとすれば、私は彼の友人として、彼に対して、真摯な気持ちでレッスンを受講すること、彼の言わんとすることが理解できなければ、能動的に彼に尋ねるなり、良い意味で食らいつくことが大切であり、間違ってもわかった気分になってしまったり、受動的にわからないまま受けることだけはやめてほしいという思いです。
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