私はピアノ作品ではありませんが、リヒャルト・シュトラウスやマーラーを好んで聴きます。


昨日、1日が終わり、疲れているときにマーラーの「大地の歌」を聴いていて感じたことがあります。


リヒャルト・シュトラウスやマーラーの音楽というのは、もちろん個性は異なりますが、単純な和声進行ではありませんし、メロディーも予想を反する動きをするので、ある意味で難解な音楽だと思うのです。


そのような音楽を聴いていて、しかも疲れているときに聴いていて心地よいと感じる自分に気がついたのです。それはなぜだろう?と考えてみますと、答えがすぐ見つかりました。


要するに、聴く時の頭の状態なのですが、真正面から聴く、受け止めることを敢えてしていないのです。ある意味で不思議な世界、理解できない世界を斜めから聴いている自分に気がついたのです。


これがベートーヴェンやシューベルトを聴くときは、全く逆の感覚であり、まさに真正面から受け止めて聴いています。ある意味で作品と対峙しているような感覚なのです。


ですから、疲れているときに、対峙などしたくもありませんし、できませんから、ベートーヴェンのような音楽は聴くことができません。


ということは、リヒャルト・シュトラウスやマーラーの音楽を聴くには、言い換えるのならば、楽しむには真正面から受け止めない状態、感覚で聴く方が、ある意味で理解しやすいですし、楽しむことが出来るということです。


自分の頭の状態を変えること、もしくは耳の聴き方を変えることにより、音楽というものは理解出来たり、楽しんだりできるものなのですね。


その感覚で捉えれば、シェーンベルクの12音技法の世界も楽しむことが出来るようになるのかもしれません。


どうぞ皆さんも、意識して試してみてはいかがでしょうか? 

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