大きな五線譜に書かれた大きな音符。
小さい頃は、その通りに弾くと先生にマルをもらえて、嬉しかった。

でもそれは¨塗り絵¨と同じ。
書かれている点をなぞるだけ。
ピアノはドの鍵盤を弾けばドが鳴るので、書かれた音を弾けば一応その曲になる。
平面的な塗り絵の完成。


小学生~中学生になって、五線譜や音符が小さくなって、よく知られている名曲をやるようになっても、
ただ¨名画¨の塗り絵になっただけで、塗り絵に変わりはない。
音符をなぞって、強弱をつけてみると、名画の塗り絵が完成し、先生にマルをもらえる。
その頃の奏法では、響きと響きがぶつかっていたと思うし、どんなに思いを込めても
響きに表情はつけられず、強弱がつけられる程度だった。
思いの込め方が足りないのか…と、思っていた。
発表会で演奏すると、頂く言葉は、「あの曲知ってる~」とか「すごいね~」とか。
そういう言葉を頂いて、嬉しかったことは無い。
そんな塗り絵制作の繰り返しが虚しくなって、苦しい壁にぶちあたって、中学生でピアノをやめてしまった。


長いブランクの間、世界の一流ピアニストの演奏を沢山聴いた。
あることがきっかけで、18年ぶりにピアノを再開しようと決意した時、
「あのピアニスト達のような響きで演奏したい」と思い、来る日も来る日もネットで先生探し。
「今日みつからなかったら、もう探すのをやめよう。
あの響きで演奏できないのなら、ピアノを再開するのはやめよう。」と、
諦めようとしたその日、大野先生のHPをみつけ、私がやりたい事はこういう事なんだ、と確信。
中学生でピアノをやめ、18年もブランクのあるアマチュアの私が、レッスンしていただける訳もないのに、
その時にはそんな事も考えずに、ただ嬉しくて、大野先生にメールをした。
その後、大野先生からピアニストの川村文雄さんを紹介され、川村先生のレッスンを受け始めることに。
しばらくして、門下生の発表会で大野先生にお会いし、それからは大野先生のレッスンをしていただいている。


こうして、ピアノ再開と同時に出会った奏法は、塗り絵とは全く違い、立体的というか、空間に浮かび上がる世界。
作曲家が、やむを得ず楽譜という平面に記号として書いた設計図をもとに、浮かび上がる響きを混ぜたり、
高低差をつけたり、表情をつけたりして、その曲の世界を空間に描き出す。
音楽は空間、時間、の芸術。
そういえば先生のHPは『ピアノの時空』というタイトル!
名画の塗り絵制作から脱出し、作曲家の描いた空間、世界に触れる事ができるようになり、
今は楽しくて仕方がない。



この奏法で演奏するようになって、聴く人の反応も変わった。
感想を伝えにきた方の目に涙が溢れていたり。
少し前、ロンドンで演奏する機会があった。演奏後、イギリスの方々が自分の胸に手を当てて涙を流しながら
握手をしに来て下さった。
何かが伝わった事、聴く人の心に響く演奏ができた事が嬉しかった。
作曲家の描いた世界を聴く人に届ける、演奏者の使命を果たせた気がした。



塗り絵完成の喜びと、演奏者の使命が果たせた時の喜びは、比べものにならない。
「平面(2次元)ではなく、立体(3次元)にする」。大野先生の言葉。
そこに、芸術の世界が広がっている。



芸術には、純粋と悟りが共存しているように思う。
生まれたてのように純粋で無邪気だけれど、哀しみや喜びや何もかもを知り尽くし見抜き、
超越しているような悟りも、同時に存在している。
それは、¨作品¨だけでなく、芸術家という¨人間¨にも感じられる。

以前、先生が「感性は頭だ」と話してくれた。たしかに、そう思う。
感受性は本能に近いけれど、感性には感受性と知性が共存しているように思う。
テストの成績が良いとか、そういう事ではなく、芸術は人間のみが創造できるもので、
感性には知性が含まれているという事。
感性(感受性と知性)が、純粋でいて悟っている、芸術家をつくり上げる。


この場合の悟りは、社会のルールに適応していくためのものではなく、世の中の真実を見抜いているものなので、
社会のルールからは逸脱しているように見える場合もあると思う。
社会のルールには、真実より重んじられるものも沢山あり、芸術家は生きにくい。
そんな芸術家の生み出した作品に、多くの人々が癒され、心を打たれる。
社会で色々と折り合いをつけて暮らしている人々の心に、芸術は響く。


大野先生は、まさに芸術家だと思う。
運指やペダリングの技術を教える教師とは、違っている。
芸術は芸術家からしか学べない。
芸術家を身近に感じることで、気付く事は多い。


奏法との出会いに感謝。
そして、今まで面と向かって感謝を表明したことはないけれど(笑)、
日々芸術の奥深さを教えて下さる大野先生との出会いに、感謝。
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