以前の章、第26章「失われた教師と生徒の絆」でも似たようなことを書きました。
ここで改めて申し上げたいことがあります。
今から15年以上前、私が教師をし始めたばかりの頃のことです。当時、私の父から言われた言葉があります。
「先生と呼ばれる職業の人間には、ろくでもないのが大勢いる。先生という言葉は、先に生まれたと書くだけで、先に生まれたから、たまたまその知識を知っているにすぎない。だから、自分が偉いなどと勘違いをしてはいけない。」
その言葉の通り、私自身、それを肝に銘じて教師を行ってきました。
しかしながら、現実を考えたときに、今までの経験から、はなはだ考えを変えなくてはないのではないか?という思いをすることが多々ありました。
もちろん、教師が偉いとは思っておりませんが、教師を教師と思っていない生徒や生徒の保護者というのがいるのも現実なのです。
言い換えるならば、「人から物事を習う」ということの根本を知らないということです。
日本古来の伝統芸能の世界、そして日本だけではなく、例えばドイツの職人の世界でも当たり前のことなのですが、絶対的な主導権は、あくまでも教師や師匠の方にあり、習う側の生徒や弟子、生徒の保護者にはないのです。
習う側は、教師や師匠に対して、尊敬の念のもと、古くから伝わってきた伝統という重みを継承していくのです。
本を読んで知識を得る学問とは、根本的に異なるのです。
人が人へ伝えていくということは、そこには人の気持ちというものが大きく存在するのです。ですから、教師がその生徒を心から教えたいと思うことが出来なければ、良いレッスンも受けられないのです。
昨今、大手音楽教室においては、生徒はお客様であるのが現状でしょうが、個人で教えている教師が、本気で弟子に自分の得たことを伝えようとする場合においては、大手音楽教室とは異なり、サービス業ではないのです。
私の今までの経験からも感じますし、同業の友人たちからも同じことを耳にしますが、「人から物事を習う」ということの根本を理解していない生徒や生徒の保護者は、気に入らなければ教師を簡単に変え、自分の都合のよいように色々な教師を転々とし、結果的に上手くならず、その世界で大成はしないのです。
そのような、習う側の勘違い、もしくは無知とも言えるかもしれませんが、そのような場合、多くの教師は、教えるふりをするだけで、本気で相手にしないのが現状ではないでしょうか。
習う側は、伝統を受け継ぐ重みという考え、すぐに結果を出すことを考えず、まるでレンガを1つ1つ丁寧に積み上げて建物を作るような気持ちを持ちながら、教師に対する敬う気持ちを持ち続けること、そして、教える側は、その真摯な気持ちに応えるべく、責任の重みを持って教えることにより、良い循環が生まれるのだと思います。
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