ゲンリッヒ・ネイガウス

 レフ・ナウモフ


今回、アンナ・マリコヴァが来て、改めてゲンリッヒ・ネイガウスの存在、空気を感じることが出来ました。

今までは、ネイガウスーヴェラ・ゴルノスタエヴァーディーナ・ヨッフェという流れのネイガウス像でしたが、ここで新たに、ネイガウスーレフ・ナウモフーアンナ・マリコヴァという流れも加わりました。

ディーナ先生経由のネイガウス像というのは、まず楽譜に忠実といいますか、非常にアカデミックな空気を感じますが、なるほど、同じ楽譜を読むといっても、このような読み方があるものなのだということを、いつも再認識させられるものです。

それは作曲家の真髄に迫るものであり、例えば、ドイツ作品において、ドイツ人よりもドイツ人らしい演奏ではないか?と思わせるほど、厳格なのです。

ですから、ディーナ先生もショパン弾きとして、日本では名前が通っていますが、実はベートーヴェンが特に素晴らしく、レッスンにおいても、エロイカ・ヴァリエーションの一部を弾いて下さったことがあるのですが、非常に美音で軽快でありながらも、1つ1つの音が拍上にきちんとまっすぐ入ってくるのです。

技術的な観点から感じるのは、重量奏法という意味では、私と同じですが、肘から上腕、肩の位置などは、私とは微妙に異なり、それはそれでありかと思いますが、その点において、お互いに自分の考えを主張しあうということも、しばしばあります。



マリコヴァ先生経由のネイガウス像というのは、同じく楽譜に非常に忠実なのですが、そこにはアカデミックな香りは感じません。

特に「これはネイガウスが言っていたとナウモフ先生からきいたのだけれど」という前置きがあり、それは非常に厳格でありながらも、そこにはロマンティシズムが底流にあっての厳格さであり、例えばショパンのリズムをどう表現すべきかということについては、スラヴ系独特のリズム感で表すというものを感じました。

技術的な観点から感じるのは、ナウモフ先生が小柄だったからかもしれませんし、マリコヴァ先生やスルターノフも同じく小柄(2人は同じタシケントの出身で、モスクワに出てくる前は、同じタマーラ・ポポヴィッチに師事)で、特徴的なのは肘の位置と、上腕、肩の使い方にあり、その点において、私は同意見であるということです。

一般的にマスタークラスというものは、技術的な観点には触れないことが多いのですが、ディーナ先生、そしてマリコヴァ先生のお2人だけは、その点に触れてくださいます。



総じて、どちらの先生からも、多少異なる部分はありますが、ネイガウス流派のピアニズムというものを、香りのようなものを感じることが出来るのは、私にとって望外の喜びであり、現代の東京において、当時のモスクワを感じることが出来るのは、信じられないといっても過言ではありません。



改めて、ゲンリッヒ・ネイガウスの偉大さとその影響力、そして人を通して大切に継承されている伝統というものがあるということを再認識しました。

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