モーツァルト アヴェ・ヴェルム・コルプス KV 618


私がまだ子供のころ、モーツァルトのピアノ曲を聴いても、良さが分からなかったものです。

例えば、ピアノコンツェルトを聴いて、ただのスケールとアルペジオの連続、緩除楽章に至っては眠くなる、いつも終止形はトリルでワンパターンなど、今から思うと恥ずかしいほど、捉え方が稚拙でした。

なぜ?こんな作曲家が偉大なんだろう?と思ってました。



その後、年を重ねるごとに、私にとってのモーツァルトの存在は変化してゆくこととなりました。



特にオペラ「魔笛」を知ってから、モーツァルトに対する愛着が芽生えました。今から思うとモーツァルトに目覚めた時だったといえます。

ですから、学内のコンツェルトの試験でも、わざわざ点数のとれないモーツァルトの21番のコンツェルトを選びましたし、その頃の私にとって一番気になる作曲家だったと思います。寝ても覚めても、モーツァルトという日々でした!(笑)



そして、そんな熱狂的な時期が過ぎ去り、色々な作曲家にも目を向け、モーツァルトは特に好きな作曲家の1人として落ち着きました。



しかし、その後、不思議なことに、モーツァルトの作品を聴いていて、何か居心地の悪さとでもいいましょうか、そのような気分になってしまうので、意図的に遠ざかった時期が来ました。

なぜならば、モーツァルトが曲に込めた、それまで感じなかった目に見えない何かを感じ始めたからです。



一般に、モーツァルトを聴くとα波が出ると言われていますが、私にとってはその逆で、聴いていると落ち着かない気分になってきて、イライラしてきたのです。



その時に思ったのは、モーツァルトの頭の回転の速さ、めまぐるしいスピードで音楽の内容が変わって行くことに対して、反応し始めたのだと思います。



話は変わりますが、エリソ・ヴィルサラーゼの雑誌のインタビューで、彼女はモーツァルトでピアノのテクニックの基本を学ぶことが出来たと書いてありました。

なるほど、モーツァルトの音型というのは、基本の基本で溢れています。それを、ただ粒をそろえて弾く感覚の一般的な奏法のピアニズムではなく、ロシアピアニズムの奏法で捉えること、それは、1つ1つの音の集まりを、固まりとして認識し、その集まりを線で描くこと、そして、そこには、モーツァルトの音楽の本質にあった音色の選択、様式感から来るレガートではなくノン・レガートを基本とした、1音1音を空中に飛ばす表現方法が必要とされ、基本的な音型であっても、表現するという意味で、非常に高度なテクニックを駆使せねばならないという、超一流のモーツァルトを学んだのだと思います。



それを知ってからの私は、それまでとは全く違う感覚を、モーツァルトを弾くときに感じるようになりましたし、何を以ってモーツァルトなのか?ということが大きく変わりました。

要するに粒がそろっているだけの、強弱だけで表現されるモーツァルトの演奏に対して違和感を感じるようになったのです。そしてそこには、テクニックと一体化した知識と鋭い感受性というものが必要なのです。



話は戻りますが、そのようなことを知ってからのモーツァルトの音楽的な意味での難しさ、そして、おもしろさというものを、それまでとは違った感覚で感じるようになり、今現在、ピアノ曲ではありませんが、宗教曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が私の心に染みいるようになったのです。まさに天上の音楽であり、この世にこんなに美しい曲が存在していいのか?と思ってしまうほどです。



将来、私がこの世を去った時、葬儀の際は、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を流してほしいと思っています。

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